この、インターネットで公開する文面は、雑誌に発表した文面と完全に一致しています。誤記や誤植があったとしても、その誤りも歴史の一部ですから、誤りのままここで再現することにしました。

雑誌におけるページづけを示すために【 】の記号を使いました。例えば、【15】は、この記号より以下の文面が該当雑誌の中で、第15頁にあることを意味します。次に【16】の記号が現れるまでの文面全部が、第15頁です。また、【一】とあるのは縦書きの論文の第1ページであり、【1】とあるのは横書きの論文の第1ページを意味しています。横書きの場合、左へページが進むので、雑誌においてはページ番号が次第に若返ってゆく現象が起こります。例えば、【445】の次のページは【444】になります。

 

サンスクリットの特殊文字は次のように変換しました:

長音のaはaa, 長音のiはii、長音のuはuu。母音のr は#r、母音のlは#lです。

子音は:

k, kh, g, gh, +n

c, ch, j, jh, %n

#t, #th, #d, #dh, #n

t, th, d, dh, n

p, ph, b, bh, m

y, r, l, v

%s, #s, s

h

Visargaのhは#h、Anusvaaraのmは#mです。

次に、ヨーロッパ語の表記について:

ウムラートの付くa, i, u, e, oはそれぞれ%a, %i, %u, %e, %oとしました。

アクサン・テギュの付くe は+eとしました。

アクサン・シルコンフレックス(^)の付くa, i, u, e, oは$a, $i, $u, $e, $oとしました。

アクサン・グラーヴ(`)の付くa, e, u は#a, #e, #uとしました。

セディーユのついたcは、サンスクリットの口蓋音のsの代用として用いられるため、%sと表記しました。 


著者:岡野潔

論文レジュメ題名:「ラリタヴィスタラ原形の追加部分・普曜経巻八について」

発表雑誌:『宗教研究』、第283号、1990年、139 (593) 〜141 (595) 頁。


【一三九】

 ラリタヴィスタラ原形の追加部分・普曜経巻八について

                岡野 潔 

普曜経の巻七は嘱累の文で終わっており、ここまでを原形とみたい。つづく最後の巻八の部分は巻七までの全体に対して付加部分であると思われる。巻八のうち末尾の歎仏品と嘱累品は、巻八の残りの部分即ち十八変品から優陀耶品までの部分と成立段階を考える上で区別し、前者を第一段階の付加、後者を第二段階の付加と考えたい。なぜならLVは前者をもつが後者を欠き、普曜と方広だけが後者をもつ。後者の付加がないだけLVは普曜より古いかたちを示すと思われるからである。この第二段階の付加部分では方広は普曜よりやや簡潔な原文を有し【一四〇】ていたらしい。次に、普曜経巻七までの部分においては、LV・方広には大きな共通の付加がある。つまり二者はこの共通の付加の後から分岐したと考えられる。この付加を第三段階の付加と呼びたい。昨年の発表ではこの第三段階の付加部分の資料の部派帰属を問題とした。今回の発表では第二段階の付加部分の資料の部派帰属を検討する。第二と第三の付加の間には三百年ほどの間隔があり、当然用いた資料の部派帰属も異なると思われる。

 巻八の初めに来るのが十八変品であるが、この部分は太子瑞応とも一致する。これは松田祐子氏の述べるように(印仏研三七の一)太子の方が借用しているのである。松田氏はこの部分のソースをYという仏伝に帰属させているが、私は太子のこの部分は普曜の十八変品から取られたものであり、Yという仏伝をここに持ち出して来る必要はないと考える。しかし印度或いは西域で第二段階の付加がなされたとき、この部分はある部派の律蔵資料から取られたに違いない。十八変品は三迦葉に示した十八の神変を語るものであるが、破僧事・四衆・衆許・過去現在・五分律・四分律・仏本行集・大品・大事・中本起等のパラレルと比してより簡潔・素朴で古い形を保つ。十八変品のあと仏至摩竭国品・化舎利弗目連品と続くが、これらの後続の品と十八変品との間にははっきりした成立の断層が感じられる。というのは、上述の他の律蔵資料のパラレルとの対比関係はこれら後続の品まで続いているが、パラレルと比較して見るとき、十八変品の部分はより素朴・簡潔であるのに、後続する二品は逆にパラレルよりも付加部分が多く、冗長なのである。つまり明らかに成立年代の違う資料が用いられていることがわかる。十八変品が阿含の素材そのものであるのに対して、その後の品は仏伝としての新しい層を含んでいる。この新しい層において、共通部分を普曜と多くもつのは中本起である。他のパラレルは阿含の古い素材の層において普曜と比較されるにすぎない。しかしこの阿含の古い素材の部分の比較においても普曜にもっとも近いのは中本であろう。中本は部派が不明であるから普曜の用いた阿含資料の所属部派を決定することはできない。そこで古い層の部分において中本の次に近い資料はどれかということが問題になる。古い資料の層の部分、特に十八変品において、中本に次いで普曜に近いのは過去現在と四分律である。過去現在は明らかに有部系だが、東トルキスタン有部・根本有部系の資料とは異なる系統らしい。恐らく古い有部の伝承に属するのだろう。根本有部系の資料が普曜巻八の資料と大きな距離があるのに対して、過去現在は普曜の資料と近さを示す。また同じ距離で法蔵部四分律も近い。この両者と比べて化地部五分律は伝承がやや遠いが、化地部説について一つだけ興味ぶかい根拠が仏本にある。中本・普曜は竹園の寄進者を迦陵(迦蘭陀)という長者にしている点が特殊であるが、仏本の細註によると長者の寄進を述べるのは化地部(と飲光部)の仏伝である。しかし仏本に語られている化地部の寄進のストーリーは中本・普曜のものと異なるから、決定的ではない。以上は相対的な近さを考察したが、普曜巻八の資料は上座部系で、中本と同【一四一】系の知られていない、かなり独自性をもつ一部派のものであったと思われる。


後記(インターネットで再発表する際に初めて付けられた筆者からの説明)

以上が雑誌に掲載されたレジュメの全文ですが、1つの論文に相当する内容をレジュメとして思いきり圧縮したために、かなり読みづらいものになっています。

このレジュメの中には、次のような略号が使われています。

普曜 ・・・・・普曜経(大正 No. 186)

方広・・・・・方広大荘厳経(大正 No. 186)

LV・・・・・梵文 Lalitavistara(出版:S. Lefmann(1902, 1908): Lalita Vistara. Leben und Lehre des %Saakya-buddha, erster Teil: Text, 1902; zweiter Teil: Varianten-, Metren- und W%orterverzeichnis, 1908, Halle)

太子・・・・・太子瑞応本起経(大正 No. 185)

太子瑞応・・・・・・太子瑞応本起経(大正 No. 185)

破僧事・・・・・・根本説一切有部毘奈耶破僧事(大正 No. 1450)と梵文Sa+nghabhedavastu(出版:Raniero Gnoli(1977, 78): The Gilgit Manuscript of the Sa+nghabhedavastu, being the 17th and last section of the Vinaya of the Muulasarvaastivaadin, Two Parts, Roma)

四衆・・・・・・梵文の四衆経 Catu#spari#sadsuutra(出版:E. Waldschmidt(1952, 57, 62): Das Catu#spari#satsuutra. Text in Sanskrit und Tibetisch, verglichen mit dem Paali, nebst einer %Ubersetzung der chinesischen Entsprechung im Vinaya der Muulasarvaastivaadins, auf Grund von Turfan-Handschriften herausgegeben und bearbeitet. Teil I (1952), II (1957), III (1962), Berlin)

衆許・・・・・・衆許摩訶帝経(大正 No. 191)

過去現在・・・・・・過去現在因果経(大正 No. 189)

五分律・・・・・・漢訳律の五分律(大正 No. 1421)

四分律・・・・・・漢訳律の四分律(大正 No. 1428)

仏本・・・・・・仏本行集経(大正 No. 190)

仏本行集・・・・・・仏本行集経(大正 No. 190)

大品・・・・・・・パーリ文 律蔵のMahaavagga

大事・・・・・・・梵文 Mahaavastu(出版:+Emile Senart(1882, 90, 97): Le Mahaavastu.Texte sanscrit pour la premi#ere fois et accompagn+e d'introductions et d' un commentaire, 3 vols. Paris)

中本・・・・・・中本起経(大正 No. 196)

中本起・・・・・・中本起経(大正 No. 196)


 以上のレジュメが圧縮しすぎてわかりづらいため、宗教学会における発表 (1989) において岡野の作成した口頭発表原稿の全文をここに載せることにします:

  口頭発表原稿

 ラリタヴィスタラは梵本が伝わっている大乗経典の1つです。

ラリタヴィスタラの資料としては、次の4つの資料があります。

1 梵本ラリタヴィスタラ

2 普曜経 (308年竺法護により訳出)

3 方広大荘厳経 (683年地婆訶羅により訳出)

4 蔵訳ラリタヴィスタラ (9世紀の初4半期の訳出)

 蔵訳は梵本と大変よく一致します。しかし漢訳はどれも梵本とは一致しない部分をもち、そこでこれらの異なる系統がいかにして成立したかが研究される必要が出てきます。

 私はラリタヴィスタラの系統の成立を4段階に分けて考えています。  

  第1段階 原形部分(普曜経の巻七までの部分)の成立
  第2段階 普曜経の巻八の成立
  第3段階 ラリタヴィスタラの系統の成立
  第4段階 方広大荘厳経の系統の成立

このうち、第2段階の普曜経巻八の成立はさらに2つの段階に分けられます: 

  a 普曜経の巻八の歎佛品・嘱累品の部分の成立
  b 普曜経の巻八の十八変品から優陀耶品までの4品の部分の成立

 方広大荘厳経の系統としては漢訳1種の存在によって知り得るのみです。

一方、ラリタヴィスタラの系統としては蔵訳のほか、佛本行集経の編纂に資料として使われたラリタヴィスタラ、またボロブドウ ルの120枚のレリーフを彫るのに使われたラリタヴィスタラがあったことがわかります。

 私は先に、第1段階と第3段階については「普曜経の研究」という論文で扱いました。また第4段階については「もう一つのブッダチャリタ」という論文に書きましたが、これは印刷にかかっております。

そこで今回の発表では第2段階の成立について考察してみたいと思います。

 第2段階では普曜経の巻八の部分が問題となります。

原形は巻一から巻七までの部分であります。これに第2段階で巻八の部分が付加されたと思われます。

 これは多少複雑で、お配りしました資料の2枚目をみていただくとわかりますように、普曜経の巻八は十八変品から嘱累品まで6つの品があります。これは全く対応する部分が方広大荘厳経にありますが、そちらでは普曜の独特の品分けに従わずに、転法輪品と嘱累品としていますが、内容は全く同じであります。ところが梵本ラリタヴィスタラでは方広大荘厳経と同じ品分けをしておりますが、方広大荘厳経の転法輪品の後半にあたる部分、これは普曜経の十八変品から優陀耶品にあたりますが、その部分がラリタヴィスタラにはありません。

 これは梵本ラリタヴィスタラが普曜経や方広大荘厳経よりも古いかたちを残しているのだと解釈できます。

 つまり梵本ラリタヴィスタラの分岐は、普曜経の巻末の歎佛品と嘱累品よりは後で、十八変品から優陀耶品の4品の付加よりは前だということになります。

 このことから、歎佛品と嘱累品の部分の成立と十八変品から優陀耶品の4品の部分の成立は分けて考えなくてはなりません。後の方の歎佛品と嘱累品の部分が先に付加され、十八変品から優陀耶品の4品の部分がそれに遅れて、途中に割り込むかたちで付加されたということになります。

 こうして付加された普曜経の巻八の部分の、とくに十八変品から優陀耶品の4品の部分は、原形部分が大乗経典であるのに対して、大乗的な匂いのない、明かに部派的な、古い資料を用いて付加したとわかるものであります。

 そこでいかなる部派の資料を用いて、十八変品以降の4つの品の部分が付加されたのかを考察してみたいと思います。

 昨年のこの学会の発表では、第3段階の付加部分はいかなる部派の資料を用いてなされたのかを検討いたしました。それらの付加部分の中には明らかに阿含資料の断片と思われるものが入っていて、その部分を様々な部派資料と比較した結果、マハーヴァスツが用いている阿含資料に最も一致することがわかりました。その結果、それらは大衆部の系統の阿含の一部ではないかと結論いたしました。今年のこの発表では第2段階における付加に用いられた部派資料はいかなる部派のものであるかを調べてみるわけですが、もともとラリタヴィスタラは大乗経典ですから、特定の部派と結び付きをもっているわけではありません。第3段階の付加と第2段階の付加の間には300年ほどの開きがあり、付加がなされた地域も部派も異なると思われます。

 巻八の初めに来るのが十八変品であるが、この部分は太子瑞応本起経と一致する。これは昨年印佛研で松田祐子氏が発表されたように、太子瑞応の方が普曜十八変品の梵本を借用したため一致するのである。松田氏はこの十八変品にあたる部分のソースをYという佛伝に帰属させているが、これは松田氏が普曜の十八変品の付加は中国で行われたと想定しておられるためです。私は太子のこの部分は普曜の十八変品から取られたものと考えるのが一番自然であると考える。また普曜の十八変品の付加は印度或いは西域でなされたと考えます。私なりの太子瑞応の成立の図式はお配りした資料の2枚目にあげておきました。

  印度或いは西域で普曜経の十八変品以下の4品の付加がなされたとき、この部分はある部派の律蔵資料から取られたに違いない。十八変品は三人のカーシャパに示した十八の神変を語るものであるが、破僧事・衆許摩訶帝経・Catu#spar#sat-suutra ・過去現在因果経等の有部系の佛伝資料や、化地部の五分律・法蔵部の四分律、同じくベースが法蔵部といわれる佛本行集経・パーリの大品・説出世部のマハーヴァスツ・部派未定の中本起経等のパラレルと比べて、この普曜経の十八変品はより簡潔・素朴で古い形を保つ。十八変品のあと、佛至摩竭国品・化舎利弗目連品等が続くが、これらの後続の品と十八変品との間にははっきりした成立の断層が感じられます。というのは、上述の他の律蔵資料のパラレルとの対比関係はこれら後続の品まで続いているが、パラレルと比較して見るとき、十八変品の部分はより素朴・簡潔であるのに、後続する二品は逆にパラレルよりも付加部分が多く、冗長なのです。つまり十八変品とその後の品とは明らかに成立年代の違う資料が用いられていることがわかります。

 十八変品が阿含の素材そのものであるのに対して、その後の品は佛伝としての新しい層を含んでいる。この新しい層において、共通部分を普曜と多くもつのは中本起である。他のパラレルは阿含の古い素材の層において普曜と比較されるにすぎない。しかしこの阿含の古い素材の部分の比較においても、普曜にもっとも近いのは中本起であろうと思われます。普曜と中本起の近さについては、お配りした資料の3枚目・4枚目・5枚目に具体的にその根拠をあげておきました。

 中本起は部派が不明ですから、普曜の用いた阿含資料の所属部派を決定することはできない。そこで古い層の部分において、中本の次に近い資料はどれかということを問題としなくてはなりません。古い資料の層の部分、特に十八変品において、中本起に次いで普曜に近いのは過去現在因果経と四分律である。過去現在因果経は明らかに有部系だが、東トルキスタン有部=根本有部系の資料とは異なる系統らしい。恐らく古い有部の伝承に属するのだろうと思われます。根本有部系の資料が普曜巻八の資料と大きな距離があるのに対して、過去現在因果経は普曜の資料と近さを示す。また同じくらい四分律も近い。すなわち古い有部の過去現在因果経と法蔵部の四分律が、中本起ほどではないが、普曜経の十八変品に近いことがわかります。順位としてはこの両者の次に化地部五分律が近いであろう。普曜の資料の出どころを化地部とするについて一つだけ大きな根拠が佛本にある。中本起と普曜は竹園の寄進者をビンビサーラではなく迦陵(迦蘭陀)という長者にしている点が他の佛伝と比べて特殊であるが、佛本行集の細註によると、長者の寄進を述べるのは化地部(と飲光部)の説であるとあります。しかし佛本に語られている化地部の寄進のストーリーは中本・普曜のものと異なるから、このことは決定的ではありません。

 以上、中本起に次ぐ資料として、法蔵部や古い有部や化地部の資料を候補にあげて、相対的な近さを考察したが、中本起の部派がわからない以上、結論としては、普曜巻八の付加に使われた資料は恐らく上座部系で、かつかなり独自性をもつ部派の資料であったとしか言うことはできないのは残念であります。

(了)


  宗教学会における発表 (1989) において、岡野が同時に用意した研究メモの全文:

「太子瑞応の十八変品にあたる部分は普曜から取られたものであろう」

 松田祐子氏は去年の印佛研(1988年)で発表をされた(Yuuka Matsuda: "Chinese Versions of the Buddha's Biography". 印仏研 37-1, pp. 489-480)。

松田氏によって太子瑞応が、パッチワークから作られた佛伝であり、異出菩薩の梵本をワクとして、それに修行本起の漢訳をくっつけ、また後半では普曜の十八変品の梵本を訳してつけたものであることが明らかにされた。

 松田氏の言う通り異出菩薩と修行本起を切り張りしてみると、確かに太子瑞応の前半部分が大体できあがるし、それに普曜の十八変品を接続すると、ほぼ全体ができる。したがって、太子瑞応は異出菩薩と修行本起と普曜の十八変品を主なソースにしているというのは認めていいと思う。

 しかし松田氏の仮設はさらにこの発見の上に組み立てられたものである。松田氏は次の図を提出する。(松田祐子論文の図を参照)

 松田氏によれば普曜の十八変品は「Y」という別の資料から取られて附加されたものである。そして太子瑞応の中の十八変品にあたる部分も実は普曜から取ったのではなく、同じ「Y]という資料から取ったものであるという。確かに普曜の十八変品は、普曜の全体からみて後に付加された部分である巻八の一部である。しかし、だからそれが中国において太子瑞応に利用された「Y」資料の一部である、とするのは飛躍がある。ここでことわっておくと、松田氏は十八変品の部分だけが「Y」としているわけではない。異出菩薩と修行本起をソースとするだけでは説明がつかない部分が全体の10パーセントほど残されているが、それとひっくるめて「Y」という資料に帰しているのである。

 なぜ松田氏が太子瑞応の中の、未知のソースによる部分と、普曜の十八変品を一緒にくくってしまったのかわからない。太子瑞応が基づいた資料の数は少ないほうがよいと考えられたのだろうか。

 そこで普曜の十八変品が他の佛伝資料から借用した部分であるという、松田氏のこの仮設について、検討してゆくことにする。

 パッチワークとして作られた太子瑞応には、普曜から取られたと思われる部分が、十八変品以外に見つからないだろうか。先に異出菩薩と修行本起をソースとするだけでは説明がつかない部分が10パーセントほど残されている、と述べたが、それらの部分のなかに普曜の十八変品以外の部分から取られたものが混じっていないだろうか。それを調べてみたい。

 主なソースのどれにも属さない、謎の資料を用いたと思われる部分は次のとおり:

 (1)478a8〜15,(2)474a19〜23,(3)474b13〜23,(4)475b6〜18,(5)475c1〜8,(6)476b29〜c6,(7)476c16〜21,(8)477a3〜8,(9)477a11〜13,(10)477a16〜20,(11)479a5〜b26,(12)479c17〜480c20

 さてこれら12の部分を検討してゆくと、断片(3)〜(5)、断片(7)〜(10)は普曜経・ラリタヴィスタラの一部ではない。断片(1)は三十二相の記述だが、高原信一氏の三十二相の系統研究によると、ラリタヴィスタラに最も近い系統のものである。高原氏は30もの資料を比較しているが、これほどラリタヴィスタラに近いものは他に(ラリタヴィスタラを利用したと思われるMahaavyutpatti の32相を除いて)ない。断片(6)はラリタヴィスタラにないが、普曜経には多少類似の文がある(510c)。断片(2)は転輪王の記述だが、一応対応部分は普曜経にもあるものの、あまりに簡略で、そこから取られたとみなすことはできない。断片(11)と(12)は普曜経の漢訳と逐字的に一致するが、これは普曜経の訳出の際、太子瑞応から訳文をそっくり借用したための一致であって、普曜経の原文が太子瑞応の借用の代わりに捨てられた可能性があるから、実際に一致していたかどうかはわからない。少なくともラリタヴィスタラとはこれらの部分は一致しない。もし太子瑞応の訳文が普曜経の原文と一致していたなら、竺法護は十八変品の訳出におけるがごとく、きめこまかに訳語を修正しながら用いたはずであり、それをせずにそのまま使ったのはのは、普曜経の原文が太子瑞応と全く違っていたからであると思われる。こうして、12の断片のうち、そのソースが普曜経でありそうなのは(1)だけで、(6)は疑わしく、(11)と(12)は比較が成立せず未定であり、残りはその可能性は全くない。謎の資料が普曜経の原本であり、普曜経の中から十八変品以外の部分が借用されたとみなす決定的な証拠はない、といわねばならない。ただ、(1)や(6)の断片の類似により、普曜がわずかながら資料に用いられた可能性はある、といってよいと思う。とくに(1)の32相の記述はこれほどラリタヴィスタラに近い系統のものは他に見当らないだけに、注目すべきであるが、しかし当時ラリタヴィスタラと同じ系統の32相を説くものが外にもなかったとはいいきれず、これ1つだけでは資料に普曜が使われた根拠とすることは出来ないのであるが、ともあれ普曜が使われた有力な根拠の1つとしてよいであろう。

こうして、太子瑞応の内部からは十八変品のほかに普曜から取られた確実な部分を見出すことができず、このため十八変品が本当に普曜から取られたのかどうか確認することはできない。

 しかしまわりから、十八変品が普曜から取られたとする根拠をさがすと、普曜の異訳である方広大荘厳にも十八変品にあたる部分があるという事実がまずある。松田氏は普曜の十八変品の以下の部分は普曜以外の佛伝資料から取って普曜の末尾に附加するという作業が中国で行われたと考えておられるが、方広大荘厳に同じようにその部分があるとすると方広大荘厳においてもやはり中国でその付加が行われたと考えられるのだろうか。もしそうとすれば方広大荘厳の十八変品にあたる部分は普曜の同じ部分の漢訳を中国で書き直して附加したということになろう。実際方広大荘厳のその部分の漢訳は普曜の該当部分と大変類似しており、しかも普曜の訳の方が方広大荘厳の訳を包摂してしまっているので、この可能性の十分検討の余地がある。しかし綿密に比較した結果、方広大荘厳は自らの原典に基づいている証拠を発見するに至った。613b17の「願」がそれである。これは普曜の漢訳にはない。しかし四分律やパーリ大品のパラレルには「願」が出て来る。普曜にない正確な記述を方広が知っているのは、方広が自らの原典に基づいているからである。こうして方広が普曜のごとく十八変品を含む4つの品の付加をもち、しかも原典に基づいているとすると、普曜の原典も、中国にくる以前に十八変品を含む4つの品の付加がすでになされていたと考えるのが妥当であろう。

そして、このように中国に来る以前−−恐らくインドで普曜経がある佛伝を利用して十八変品以降の4品の付加がなされたことを考えると、普曜と同時にその佛伝がたまたま平行して中国にもたらされて太子瑞応に利用されたという仮定は、たとえ可能であるにしても、多分にありそうなことではない。以上の理由から、太子瑞応の十八変品にあたる箇所はやはり普曜から取られたとするのが最も妥当と思う。

ではこの十八変品以降の4品の部分がすでにインドにおいて付加されていたとして、それはいかなる部派の資料を用いて付加されたのであろうか。

それが新たな問題となる。それは、「ラリタヴィスタラ原形の追加部分・普曜経巻八について」のレジュメにおいて、詳細に論じなければならない問題である。