この、インターネットで公開する文面は、雑誌に発表した文面と完全に一致しています。誤記や誤植があったとしても、その誤りも歴史の一部ですから、誤りのままここで再現することにしました。

雑誌におけるページづけを示すために【 】の記号を使いました。例えば、【15】は、この記号より以下の文面が該当雑誌の中で、第15頁にあることを意味します。次に【16】の記号が現れるまでの文面全部が、第15頁です。また、【一】とあるのは縦書きの論文の第1ページであり、【1】とあるのは横書きの論文の第1ページを意味しています。横書きの場合、左へページが進むので、雑誌においてはページ番号が次第に若返ってゆく現象が起こります。例えば、【389】の次のページは【388】になります。

 

サンスクリットの特殊文字は次のように変換しました:

長音のaはaa, 長音のiはii、長音のuはuu。母音のr は#r、母音のlは#lです。

子音は:

k, kh, g, gh, +n

c, ch, j, jh, %n

#t, #th, #d, #dh, #n

t, th, d, dh, n

p, ph, b, bh, m

y, r, l, v

%s, #s, s

h

Visargaのhは#h、Anusvaaraのmは#mです。

次に、ヨーロッパ語の表記について:

ウムラートの付くa, i, u, e, oはそれぞれ%a, %i, %u, %e, %oとしました。

アクサン・テギュの付くe は+eとしました。

アクサン・シルコンフレックス(^)の付くa, i, u, e, oは$a, $i, $u, $e, $oとしました。
アクサン・グラーヴ(`)の付くa, e, u は#a, #e, #uとしました。
セディーユのついたcは、サンスクリットの口蓋音のsの代用として用いられるため、%sと表記しました。 


論文題名:「新発見の仏教カーヴィア Mahaasa#mvartaniikathaa ---特にその作品の、Am#rtaananda本Bc.に見られる借用に関して---」

発表雑誌:『印度学仏教学研究』、第43巻1号、平成6年、391〜386頁。


【391】

新発見の仏教カーヴィア Mahaasa#mvartaniikathaa 

   ----特にその作品の、Am#rtaananda本Bc.に見られる借用に関して----   

                     岡野 潔

 

 1.  Mahaasa#mvartaniikathaa[Msk.]は、現在まで学会に知られていなかった韻文の梵語美文体詩であるが、後代に与えた影響を度外視して芸術的成熟度のみを判断の基準にするならば、誇張なしに馬鳴のBuddhacarita[Bc.]に劣らぬ、インド仏教文学の最高峰の一つとみなしうる。このような第一級の仏教カーヴィアが、完全な形で、6本ものネパール写本として存在していることが判明したのは、インド文学の愛好家にとって、極めて嬉しいことである。筆者は現在マールブルク大学のM.Hahn教授の指導により、この作品の校訂・翻訳を進めているが、今回のこの稿も、Hahn先生の助力に負うところが大きい。
 Msk.は全部で382詩節と比較的小規模の作品であるが、厳密に古典梵語文法に則り、円熟した詩的技巧を見せ、各詩節の完成度の極めて高い、大詩人 (Mahaa-kavi) の称号に恥じない作品である。全6章 (kaa#n#da) から成り、さらに各章は4つの節 (vi%sraama) に分かれる整然たる全体構成をもつ。韻律はほぼ各節ごとに交換され、節末にも交換される。作品の主な内容は、釈迦牟尼仏の伝記を冒頭に戴く、世界の成住壊空の4期の歴史叙事詩である。作者自ら第1章第1部の『序』で、「かの仏陀によって説かれたる世界の生滅の物語 (vivarta-sa#mvarta-kathaa) が語られる」と述べている。するとこの作品の題名『世界の帰滅の大なる物語』は、むしろ『世界の生成と帰滅との大なる物語』の省略された題名とみなすべきかも知れない。この壮大な宇宙論を主題にした作品は、小乗の部派の伝持する資料だけに基づいて書かれているように見える。この作品を読む際に最も参考になるのは、阿含の諸経と倶舎論の世間品なのであるが、しかし作者が基づいた資料は作者の属するSa#mmitiiya部の阿含ならびにアビダルマであったろう。作者がSa#mmitiiya部(正量部)に属していたことは、Msk.第4章2節12〜16詩節におけるインド仏教の歴史を回顧する記述自体から知られる。
 Msk.の作者の名前はコロフォンからMahaakavi, Aaaarya-%srii-bhadanta-Sarvarak#sitaと知られる。このSarvarak#sitaという未知の詩人は<註1>、セーナ王朝下の【390】ベンガルの学者%Sara#nadevaが彼の文法学書Durgha#tav#rttiを西暦1172年に完成するにあたって、その書を縮約し改訂する役を引き受けた、彼の師と思われる仏教徒の文法学者%Srii-Sarvarak#sitaと同一人物であると思われる。すると作者は1172年には壮年期か恐らくは老年期にあったはずであり、このことから彼の生存した年代が推定できる。つまりこの仏教詩人の活動期はイスラームの侵攻によってインド仏教が1192〜1203年の間に壊滅的な打撃を受ける直前であった。Msk.の完成後数十年して起こったこの不幸な歴史的事件によって、Msk.は、殆ど後世に影響を与えることなく、忘れられ、インドから消失し、漢訳もチベット訳もされない運命を辿ったが、恐らくネパールに逃亡する仏教徒によってMsk.の1写本が運ばれ、それによって、からくもこの傑作は消失を免れたのかと筆者は想像する。この、次第に悪くなってゆく世界の必然的運命を明らかにした黙示録とも受け取れる作品は、迫り来るインド仏教の終末を恐らくは予感して書かれたものであろう。この驚くべき梵文仏教カーヴィアは、インド仏教最後の白鳥の歌となった。

 2.  Msk.の作品内容については、別の機会に十分論じるつもりであるので、この稿では主に、Msk.とAm#rtaananda[Am#rt.]増補本のBc.との関係について報告したい。Cowell(1893)によって校訂出版された馬鳴のBc.はネパールの学者Am#rt.によって西暦1828〜29年に補足された非真作部分を含んでいるが、その第1章の冒頭部分には、何らかの未知の仏伝からの借用である詩節が見られ、それらの詩節が明らかにAm#rt.自身の創作ではないことについては、Gawro+nski(1914/15)が既に指摘していた<註2>。馬鳴の真作ではないそれらの、Bc.の冒頭に補填された詩節の中に、梵文仏伝%Saakya%si#mhajaataka[%Ssj.]からの借用が4詩節あることは、先にHahn(1986)により指摘がなされた<註3>。
 私はMsk.冒頭の仏伝において、Am#rt.本Bc.の第1章冒頭に補填されていた全ての詩節が、本来の形でそこに有るのを発見した。しかもBc.の同じ場所に見られる4つの%Ssj.の借用詩節も、「新しいリセンション」のMsk.の中にあった。それらの%Ssj.の4つの詩節は、Am#rt.本Bc.の第1章の補填作業よりも先に、Msk.の新しいリセンションが形成された時に、内容が仏伝であったためにMsk.の中に採用されて挿入されたと推定され、その後、Am#rt.本Bc.の補填者が、Msk.の新しいリセンションの写本を利用してそこから連続的に仏伝の詩節を借用したために、期せずしてMsk.の仏伝の詩節と一緒に%Ssj.の4つの仏伝の詩節をも、同時に借用してしまう結果になったと推定される。以下で説明するよ【389】うに、Cowell校訂本第1章の第31ab詩節までが、Msk.からの借用であるとみなしうる。
 Bc.第1章の補填の作業を行ったのはAm#rt.自身であるかどうか知ることはできない。なぜならAm#rt.自身は第14章〜17章を自分で作って補ったと奥書きの偈で述べているだけで、第1章の補填作業については何も語っていないからである。別人がAm#rt.の第14〜17章の創作の前に第1章の補填を済ませていた可能性は十分考えられる<註4>。もしそれがAm#rt.自身であったとしても、さらに、そのBc.第1章の補填作業の前に誰かがMsk.の新しいリセンションを既に作っていたことは確かであり、その誰かはAm#rt.ではなかった可能性が大いにある。
 そこで初めに、Msk.の新しいリセンション[新本Msk.]と古いリセンション[古本Msk.]の相違について述べねばならない。Msk.の写本は、現在知り得ている限りで、6本のネパール写本が存在し、筆者はそのうちの5本のマイクロ・フィルムを入手した。それらの写本によって、Msk.は古本Msk.と新本Msk.とに明確に区分出来る:

 古本Msk.・・・作品の本来の姿であって、2本のネワーリー文字の写本(N1,N2)がこれに属する。N1写本 (A38/12) は冒頭の1枚を欠く本来25枚から成るsa#mvat 544(西暦1424)筆写の最も古い貝葉写本である。N2写本 (B97/8) はsa#mvat 782(西暦1662)の本来39枚の紙写本であり、第33葉を欠いている。N2は写本伝承の系譜上では、冒頭1枚を失う以前の状態のN1写本からのコピーであると思われるが、この作品に対する勉強を兼ねた筆写らしく、写本の余白に字義不明な箇所について梵語で説明的メモや異読がつけられ、本文の上に結合した語と語の境界を明確にする印のチョンを付け、本文においてはN1写本の誤写を時にはそのまま継承するが、自分で修正した箇所も少なからず見られる<註5>。また第8葉目は別人の筆写した1葉と取り替えられ、また文字が消えて読めなくなった行は、別人の手で上書きされている。

 新本Msk.・・・ネパールの写本伝承の過程において、意図的なMsk.第1章の仏伝詩節への増補作業によって新たに生じた版であり、%Ssj.と、Bc.の真作の詩節がいくつか第1章に付加されていることが、新本Msk.の最大の特徴である。第2章以降は新本と古本とは一致する。新本Msk.は古本Msk.の写本の(第33葉が欠けた)N2を下敷きにして増補したものであるから、N2の筆写年である1662年から、遅くともAm#rt.によってBc.の14〜17章の補足がなされた1828〜29年までの間に、新本Msk.の原本は成立したと推定される。デーヴァナーガリー文字【388】で筆写された、新しい3本の写本であるD1 (A922/2=A132/7)、D2 (B109/23)、D3 (E492/42+E493/10)は新本Msk.に属している。(筆者未見の Institut de la Civilisation Indienne の1写本も恐らく同様であろう。)これらの3写本は誤写が共通しており、今は現存しない新本Msk.の原本(*D写本)からの子孫とみなしうる。*D写本は元々極めて誤写の多い拙劣な写本であったと思われる。*D写本は、第33葉が欠けた段階のN2写本を筆写して作られた。Amrt.本Bc.第1章の補填に使用された写本は、D1、D2、D3写本のどれでもなく、*D写本か、その子写本の1つであろう。

 現在の新本Msk.の姿は次の通りである:

  新本Msk.1.1.1〜1.1.4  = 古本Msk.1.1.1〜1.1.4

  新本Msk.1.2.1     = 古本Msk.1.1.1(繰り返し)

  新本Msk.1.2.2〜1.2.19  = 古本Msk.1.2.1〜1.2.18

  新本Msk.1.2.20   = %Ssj. 2

  新本Msk.1.2.21〜1.2.22  = 古本Msk.1.2.19〜1.2.20

  新本Msk.1.2.23〜1.2.25  = %Ssj. 3〜5

  新本Msk.1.2.26  = 古本Msk.1.2.22

  新本Msk.1.2.27〜1.2.30ab  = 本来のBc.(Johnston本)1.9〜1.12ab

  新本Msk.1.2.30bc〜1.2.38(ab)  = 古本Msk.1.2.27ab〜1.2.34cd

 説明すると、新本Msk.は、古本Msk.と比べて、次の4つの特徴をもっている:

(1)%Ssj.の第2、3、4、5詩節を、途中に含んでいる。(2)Bc.のJohnston 本第1章第9〜11と12ab の、3個半の馬鳴の真作の詩節を途中に含んでいる。新本Msk.はこの12ab の半詩節の借用の故に、それ以降の詩節は、古本Msk.と比べて、半詩節ずつずれてゆく。ずれの結果、新本Msk.の最後の第38詩節は半詩節しか有しない。(3)新本Msk.は(本来有する)古本Msk.の第1章第2節第21詩節と第23〜26詩節を欠いている。(4)新本Msk.では第1章第2節の冒頭で、第1節の冒頭にある仏陀への帰命の偈が再び繰り返される。

 新本Msk.の成立過程の推測は容易である:或るKathmanduの一写字生が古本Msk.の写本を写している時、このSa#mmitiiya部の伝承に依る仏伝では、六牙の白象の夢やルンビニ−園での母の脇腹からの出生などの奇蹟が無視されていることに不満をいだく。そこで、この奇蹟の描写をMsk.に補うために、%Ssj.の第2〜5詩節と、Bc.の(Johnston本)第9〜12ab【387】詩節を借用して挿入する。%Ssj.の詩節を挿入する際に、代わりにMsk.の第21詩節を捨て、さらにBc.の詩節を挿入する際に、代わりにMsk.の第23〜26詩節を捨ててしまう。それらのMsk.の詩節は、彼の梵語では手に負えないほど修辞学的・芸術的で、しかも仏伝としての内容はあまり重要でない詩節であるからである。

 3.  この様にして古本Msk.第1章の改変により新本Msk.が成立した後、第2段階として、恐らく別人によって、新本がBc.の補填作業に使われることになった。Bc.補填本の成立における補填の事情は恐らく次のようであったろう:Bc.の写本は第1章の冒頭が欠けており、第9詩節から始まっている。その穴を埋めるために、彼はMsk.を冒頭から利用することに決め、そのために第1節の『序』の帰敬偈である第1詩節を除き、残りの第1節第2〜第4詩節を捨ててしまう。なぜならそれらの3つの詩節は作者の挨拶と言うべき、Msk.の作品の目的を述べたものであって、Bc.に挿入するには不適切であるからである。こうして、Bc.の補填本には、まずMsk.の帰敬偈があり、次はMsk.の第2節の第1節から借用が始まる。新本Msk.の第2節第27〜30ab詩節は、本来Bc.の(Johnston本)第9〜12ab詩節から借用されたものであるから、Bc.の補填者は、新本Msk.を調べて、Msk.からの借用はそのBc.との重複詩節の箇所にぶつかるまでなされるのが良いと適切にも判断して、そのBc.との重複箇所、つまり新本Msk.第2節第30ab詩節までを借用して<註6>、Cowell本のBc.の第31ab詩節までを作り上げ、その後の第31cd詩節以降は、Bc.の本来の詩節をつなげてゆくことにしたのである。こうして補填者はBc.の冒頭の穴をふさぐために、新本Msk.の第30ab詩節までを、連続的に借用しようとした。この着想の段階では補填後のBc.の姿は、

   補填本Bc.1.1〜1.31ab = 新本Msk.1.2.1〜1.2.30ab

   補填本Bc.1.31cd以下  = 本来のBc.(Johnston本)1.12cd以下 

となるはずであった。しかし、補填者は恐らく、第30ab詩節まで新本Msk.の詩節を連続的に筆写する途中で、菩薩の出胎の場面を補い、もっと詳しくするために、新本Msk.の第24と第25詩節の間に挟み込むように、他の写本から2詩節を挿入した。その2詩節とは、本来のBc.の(Johnston本)第9詩節と、古本Msk.の第2節第21詩節である。この挿入のため、補填後のBc.には、本来のBc.の(Johnston本)第9詩節が奇妙にも2度出てくることになってしまったのであり、それゆえに校訂者のCowellは2度目に出てきた同じ詩節を、第28と29詩節の間から、削除しなければならなかった<註7>。この奇妙な2詩節の挿入において、補填者はわざわざ原Bc.の写本と、古本Msk.の写本を利用したとしか思えないので【386】あるが、しかし、古本Msk.の第2節第21詩節の挿入をいかに説明するかは、まだ別の可能性の余地があるかもしれない。この古本Msk.の1詩節の存在ゆえに、Bc.の補填の際に、その補填者が古本Msk.をも、新本Msk.と同時に利用したと考えざるを得ないのであるがーーーなぜなら現在写本として残っている新本Msk.には、古本Msk.の第1章第2節第21詩節が欠けているにもかかわらず、Am#rt.本Bc.の補填箇所ではこの第2節第21詩節が入っているからであるーーー、しかし、現在写本として残っている新本Msk.の姿は、もしかするとBc.の補填者が利用した当時の新本Msk.の姿と全同ではなく<註8>、当時の新本Msk.には、現在のものに含まれていない古本Msk.の第2節第21詩節が含まれていた可能性も考えるべきかもしれない。さればBc.の補填者はーーーBc.の(Johnston本)第9詩節の2度の奇妙な重複を例外としてーーー当時の新本Msk.の詩節を連続的に、そっくりそのまま用いて、Bc.の写本の穴埋めを行ったのであると、すっきりと説明できるからである。

 補填の結果として、現在のAm#rt.本(Cowell本)Bc.の姿は次の如くである:

   補填本Bc.1.1〜1.24  = 新本Msk.1.2.1.〜1.24   

   補填本Bc.1.25     = 本来のBc. (Johnston本)1.9

   補填本Bc.1.26  = 古本Msk. 1.2.21

   補填本Bc.1.27〜1.31ab  = 新本Msk. 1.2.25〜1.2.30ab

   補填本Bc.1.31cd以下  = 本来のBc.(Johnston本)1.12cd以下

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[紙数上、註を (1) (4) (8) を除き、カットする。希望者には完全な註を送付する] 

1)Sarvarak#sita の作品としては、15世紀の詞華集Vidagdhajanavallabhaa に引用された1詩節があるほか、51葉の註釈書の写本Vaasavadattaa#tiikaaが完本としてカシュミールに存在している。

4) Nandargikar(1911)が報告するBc.写本 Bt. は、既に第1章の補填はされているが、同時に14章の第14詩節で終わっており、未だAm#rt. による第14〜第17章の補足はされていない状態のものである。この写本は、%Saaradaa文字の混じったDevanaagarii文字で書かれており、Nandargikarが見て、百年かそれ以上前の写本のように見えたという。この写本の存在は、Bc.第1章の補填が、Am#rt.よりも以前に既になされていたという仮説の根拠となる。なお、Bc.の補填本の第1章には、冒頭の欠落の補填のほかに、元のBc.写本の第25詩節から第40詩節までの欠落箇所を補填した、2つの詩節がある。それらの補填された2詩節は、Cowell本の第44、45詩節なのであるが、これらの詩節は、 Bt. 写本にもある。とすると、これらも、Am#rt.の補填によるものではない可能性がある。

8) 少なくともBc.の補填者が利用した新本Msk.は、現在残っているD1、D2、D3写本のどれでもないことは異読の調査から確認できる。

〈キーワード〉Mahaasa#mvartaniikathaa、Buddhacarita、Am#rtaananda

(マールブルク大学、Doktorand)

【385】


以上が、雑誌に掲載されたための全文ですが、註のところに「紙数上、註を (1) (4) (8) を除き、カットする。希望者には完全な註を送付する」と書いてあるように、紙幅の制約の上から、註を全部掲載することは出来ませんでした。このインターネット版では、あらためて、以下に(当時私が執筆し、希望者に配布した)完全な註を掲載します:

1)Sarvarak#sita の作品としては、15世紀の詞華集Vidagdhajanavallabhaa に引用された1詩節があるほか、51葉の註釈書の写本Vaasavadattaa#tiikaaが完本としてカシュミールに存在している(M. A. Stein: Catalogue of the Sanskrit Manuscripts in the Raghunatha Temple Library of his His Highness The Maharaja of Janmu and Kashmir, 1894, p.81.)。

2) A. Gawro+nski(1914/15):Gleanings from A%svagho#sa's Buddhacarita, Rocznik Orientalistyczny,1, p.12-13.  cf. 辻直四郎『サンスクリット文学史』、岩波全書、1974年、197頁。

3) M. Hahn: Notes on the %Saakyasi#mhajaataka, Berliner Indologische Studien 1(1986). S.1-10.

4) Nandargikar(1911)が報告するBc.写本 Bt. は、既に第1章の補填はされているが、同時に14章の第14詩節で終わっており、未だAm#rtaanandaによる第14〜第17章の補足はされていない状態のものである。この写本は、%Saaradaa文字の混じったDevanaagarii文字で書かれており、Nandargikarが見て、百年かそれ以上前の写本のように見えたという。この写本の存在は、Bc.第1章の補填が、Am#rt.よりも以前に既になされていたという仮説の根拠となる。なお、Bc.の補填本の第1章には、冒頭の欠落の補填のほかに、元のBc.写本の第25詩節から第40詩節までの欠落箇所を補填した、2つの詩節がある。それらの補填された2詩節は、Cowell本の第44、45詩節なのであるが、これらの詩節は、 Bt. 写本にもある。とすると、これらも、Am#rt.の補填によるものではない可能性がある。Gawro+nski(1914-1915), p.14によれば、第45詩節は明らかに損なわれている詩節だが、ラグヴァンシャの第3章15詩節の明白な平行句であるという。

5) N2に見られるN1の修正は、N1以外の別系統の写本を見て修正したのではなく、恐らくN2筆写生本人の梵語の学殖の力によって、正しい読みを推理して修正したと思えるが、この点については、まだ確実ではない。

6) 補填本Bc.(Cowell本)第1章28+,29,30,31ab詩節における新本Msk.と真正のBc.の詩節の重複箇所の筆写において、Bc.の補填者は、Bc.のA写本を用いていないことは、Msk.とBc.の写本の異読の調査によって確認される。Cowell本1.30bの箇所で、補填本Bc.の写本はgata#h、Bc.のA写本はcyuta#hという読みを示すが、新本Msk.の写本はgata#hである。従って、補填者は新本Msk.からそれらの詩節を筆写したと思われる。

7) Cowell校訂本、4頁、註の8を参照:"After this %sloka the MSS. repeat %sloka 25". なおNandargikar(1911)とJoglekar(1912)のインド版Bc.は、この詩節の重複について、何も言及していない。恐らく彼等の写本には、重複がなかったのであろうが、しかしそれは驚くにあたらない。Bc.の写本は大まかに2種の系統に分けられると思うが、2種とは、ネパールにあった、誤写をそのまま残した、恣意的な修正の加えられていない写本と、ネパールからインドに流出して、流布の途中で実用のためテキストに相当改変を受けた写本である。前者はCowellが利用したもの。後者はJoglekarやNandargikarの報告する写本である。後者は元を遡れば、前者の写本よりも古い派生本であったのかもしれないが、現在の形はあまりに改変された読みが混入してしまっていて、後人の手が入りすぎている。もし本来は詩節の重複があったとしても、インドで写本が恣意的な修正を被った時に、重複がカットされなかったはずはないからである。ネパール筆写の写本は、誤りも含めて忠実な写本筆写の伝承を示す。

8) 少なくともBc.の補填者が利用した新本Msk.は、現在残っているD1、 D2、D3写本のどれでもないことは異読の調査から確認できる。


正誤表

391頁、15行目

誤:「全部で383詩節」 → 正:「全部で390詩節」

386頁、16行目

誤:「= 新本Msk.1.2.1.〜1.24」 → 正:「= 新本Msk.1.2.1.〜1.2.24」