この、インターネットで公開する文面は、雑誌に発表した文面と完全に一致しています。誤記や誤植があったとしても、その誤りも歴史の一部ですから、誤りのままここで再現することにしました。
雑誌におけるページづけを示すために【 】の記号を使いました。例えば、【15】は、この記号より以下の文面が該当雑誌の中で、第15頁にあることを意味します。次に【16】の記号が現れるまでの文面全部が、第15頁です。また、【一】とあるのは縦書きの論文の第1ページであり、【1】とあるのは横書きの論文の第1ページを意味しています。横書きの場合、左へページが進むので、雑誌においてはページ番号が次第に若返ってゆく現象が起こります。例えば、【445】の次のページは【444】になります。
サンスクリットの特殊文字は次のように変換しました:
長音のaはaa, 長音のiはii、長音のuはuu。母音のr は#r、母音のlは#lです。
子音は:
k, kh, g, gh, +n
c, ch, j, jh, %n
#t, #th, #d, #dh, #n
t, th, d, dh, n
p, ph, b, bh, m
y, r, l, v
%s, #s, s
h
Visargaのhは#h、Anusvaaraのmは#mです。
次に、ヨーロッパ語の表記について:
ウムラートの付くa, i, u, e, oはそれぞれ%a, %i, %u, %e, %oとしました。
アクサン・テギュの付くe は+eとしました。
アクサン・シルコンフレックス(^)の付くa, i, u, e, oは$a, $i, $u, $e, $oとしました。
アクサン・グラーヴ(`)の付くa, e, u は#a, #e, #uとしました。
セディーユのついたcは、サンスクリットの口蓋音のsの代用として用いられるため、%sと表記しました。
著者:岡野潔
論文題名:「いかに世界ははじまったか ----- インド小乗仏教・正量部の伝える世界起源神話 -----」
発表雑誌:、『文化』第62巻1・2号、1998年9月
【176】
いかに世界ははじまったか --- インド小乗仏教・正量部の伝える世界起源神話 ---
岡野 潔
はじめに
1992年にカトマンドゥの国立古文書館で、私はマハー・サンヴァルタニー・カター(略号:MSK)という未知の梵語仏教文献の写本のマイクロフィルムを入手し、93年から留学先のドイツで Michael Hahn 教授の指導のもとに6写本を読み始めた。MSKの梵文テキストの校訂・独訳をおえ、97年に博士論文としてマールブルク大学に提出した<註1>。12世紀に東インドの仏教詩人サルヴァラクシタ (Sarvarak#sita) によって書かれた MSK は、宇宙開闢から現代を経て終末に至るまでの宇宙の歴史的神話が、洗練の絶頂期にある梵語文学の高度な詩的テクニックを駆使して物語られる芸術作品(kaavya)である。このMSKという新発見の仏教文献に対する、宗教学・比較神話学などのインド文献学の隣接分野からの関心の中心は、作品の梵文学特有の詩的技法などの芸術的・装飾的な要素を取り去った、コスモロジーの内容についてであろう。MSKのコスモロジーの内容は、インド小乗仏教・正量部 (saa#mmitiiya) の伝承で形成されアビダルマとして整理されたコスモロジー理論以外の何ものでもない。MSKの研究を進めてゆくうちに、正量部のコスモロジーを伝える文献がほかにも三つ存在することが判明した<註2>。チベット大蔵経テンギュル部の中に訳されているダシャバラ・シュリーミトラ作『有為無為決択』(東北 No. 3897;大谷 No. 5865)の第8章中に、一つの未知の正量部文献からの引用文として約10葉(つまり20頁)にわたって長々と引用されている、私が文献Xと名付けた文献がひとつ、そして真諦が西暦559年に漢訳した立世阿毘曇論(大正 No. 1644)がひとつ、そして三つ目は立世阿毘曇論の原典である失われた梵語テキストからのパーリ語訳であるローカ・パンニャッティ (Lokapa%n%natti) というビルマ・タイに伝わる作品の(後世の付加部分を除いた)中核部分である。文献Xの全文の校訂テキストと独訳、ならびに立世阿毘曇論の関係箇所の独訳は、私の博士論文に含ま【175】れており、ローカ・パンニャッティの校訂テキストと仏訳は、ユジェーヌ・ドゥニの公刊した博士論文にある<註3>。それらの、MSKを含めて合計4作品あることが判明した正量部のコスモロジー文献の内容をつきあわせて読むことで、インド正量部の宇宙論が相当細かな点まで明らかになる。正量部は7世紀以降には小乗の説一切有部や大乗仏教をもしのぐ勢いをもっていた部派であり、13世紀仏教がインドで滅ぼされるに至る時まで、最後まで生き残っていた部派であったが、この部派に属する文献はほとんど現存しないものと思われていただけに、新たに見出されたこれらの資料の伝えるコスモロジーの内容は大変興味深いものがある。
MSKと文献Xは、仏教徒の視点により理論的に構築された一つの宇宙の生成と衰滅の歴史を物語ろうという意図のもとに作られている文献である。両書は(無時間的な哲学書的なスタイルではなく)歴史書的なスタイルで宇宙史を叙述する。つまり、叙述にあたっては、過去から未来への時間軸に沿った語り方を採用して、宇宙の生成と衰滅の歴史という一つの主題を語ることに作品全体が貫かれている。これは、各章ごとに異なった宇宙論的テーマを扱う(アビダルマ文献によく見られる)書き方の立世阿毘曇論やローカ・パンニャッティとは根本的に異なった叙述方法である。MSKや文献Xのような、時間軸に沿ったかたちで宇宙論の諸伝承を整理して歴史書のようなスタイルで宇宙の初めから終わりまでを描いた諸文献は他に存在せず、このような文献の出現は、仏教のコスモロジー文献の形成の流れのなかで、最終段階に属するものとみなしうる。文献Xは正量部の5回の結集の歴史に言及しており、5回目の結集は仏滅後800年とされているから、文献Xが成立したのは恐らく5世紀以後と見なさなければならない。5世紀以降の時代には、インドの仏教徒にも歴史を重視する傾向が強まりつつあったのであろう。正量部の伝統のもとで阿含文献以来形成され蓄積されてきた宇宙論に関する伝承・材料が、歴史のかたちで整理しなおされたのである。
私は以下に、その正量部の伝承の中で形成され整理された宇宙の歴史物語を紹介する。因果関係の連鎖としての宇宙の歴史、宇宙の展開と衰滅の過程の説明が、神話的な材料を使いつつも実に論理的に組み立てられているのは一驚に値する。このようなインド仏教徒の手によって完成された統一的な歴史的宇宙観を提示するユニークな資料の出現は、アジアの神話やコスモロジーの研究者にとっても、その伝える新しい内容に大いに学問的な興味が引かれるところであろう。インド仏教のコスモロジーの研究は今後ますます宗教学・神話学・民俗学・人類学などの領域の研究と結びついてゆかねばならず、そのためにはまず文献研究から得ら【174】れた成果をわかりやすくインド学の専門以外の分野の研究者に提供することが必要である。そう考え、まとめたのが本稿である。
以下、< >の中の§の番号は、文献Xの段落番号を示す。(私の上記の博士論文では、文献Xのテキストを段落分けして、1番から220番まで段落番号を付し、対応するMSKの偈頌番号を付記してある。)これは以下の私の解説に疑義が生じたときにすぐさま文献Xのテキストの該当段落に戻れるように配慮したものである。しかし以下にのべる私の説明は、文献Xの§番号に区切られてるとはいえ、決して文献Xの各段落ごとの要約ではない。文献Xによる宇宙の展開の順序に従い、つまり文献Xの段落の順序を正量部の宇宙史の骨格としつつ、他の文献の記述から多少の肉付けをするかたちで、正量部の4つのコスモロジー文献のいずれをも参照して、正量部の伝承を自分なりにまとめてみたものである。なによりもMSKと文献Xの記述が中心的な典拠である。特に文献XはMSKが直接的に基づいた源泉資料であるため、資料としての優先順位が上となる。しかし文献Xはぎりぎりまで切りつめた要約のようなスタイルをもち、他の詳細な文献の存在を前提にしているために、正量部の伝承による宇宙史をわかりやすく解説するには、文献Xを骨組みとしつつも他の文献で説明を補い肉付けをする必要があるのである。副次的資料として、ローカ・パンニャッティと立世阿毘曇論を正量部コスモロジー資料として用い、また説一切有部などの他の部派のコスモロジー文献の記述も参照したが、あくまでそれらは上記2つの文献(文献XとMSK)よりも資料としての優先順位が下となる。このように資料間の優先順位を考慮しつつ、利用しうるすべての資料を参照し、かつ、他領域の人にも読みやすいようにある程度内容を噛み砕いて、まとめてみた。以下の本文において、文献XとMSKに共通にみられる宇宙論の内容を述べるときにはいちいちその出典を記さず、しかし文献XとMSKになくローカ・パンニャッティ(略号: Loka-p)と立世阿毘曇論(略号:立世)に見られる内容を記述する場合には、いちいち出典を丸カッコに入れて示し、本文中において小文字で記した。私の博士論文の中のMSKの訳註において、すでにそれらの文献の参照すべき箇所は指摘してあるので、疑義がある場合はそちらを参照してもらえれば私の記述の根拠がわかるはずである。この論文の目的は正量部の伝える宇宙の歴史の概要を容易に通読できるような形で紹介することにあり、細かな疑問点をめぐって論じることは避けた。また同様に紙幅の事情から、世界の終末までの全部の物語は紹介できなかった。ここで扱うのは宇宙史の前半だけである。続きはまた別の機会を待ちたい。
【173】
1 宇宙の「生成しつつある状態の時代」(成劫)
<§1>聖なる正量部の伝承による教えが以下に述べられる。
<§2>世界が生成し展開し始めるべき時がくると<註4>、生成しつつある状態の時代(成劫)へと移行する。それは宇宙の普遍の法則である。その世界の生成期の初めに、宇宙の遥かな高みにおいて、大ブラフマー神(大梵天)の白く輝く宮殿が、かれ個人のカルマの力によって自然発生的に、虚空に姿を現した。【解説:宇宙の始めから終わりまでの一大サイクル(1大劫)は、「生成しつつある状態の時代」(vivartamaanaavasthaa 成劫)、「生成し終わった状態の時代」(viv#rttaavasthaa 住劫)、「滅びつつある状態の時代」(sa#mvartamaanaavasthaa 壊劫)、「滅ぼされ尽くした状態の時代」(sa#mv#rttaavasthaa 空劫) の4つの時代に分けられる。】
<§3>虚空に宮殿が成立すると、その白淨の宮殿の中に、ひとりの大ブラフマー神が父母なしに自己発生的に誕生した。彼は、より上方のアーバースヴァラ天 (aabhaasvara 光音天、極光淨天)の世界で寿命が尽きて、自らのカルマの力によって、このブラフマー世界に生まれ落ちてきたのである。【解説:前回の壊劫・空劫において破壊されなかった領域が宇宙の遥か上方に残る。アーバースヴァラ天の世界はその領域に属し、成劫が始まると、その世界で寿命が尽きた神が下方に堕ちて大ブラフマー神に生まれ変わるのである。】
<§4>それから10小劫の間、大ブラフマー神は喜びを食べて生き、安らかなる禅定に耽った。
<§5>禅定の中で10小劫が経過した時<註5>、初めて彼は、たった独りでいることに飽き、不満足となって、「ああ、世界に他の者たちも生まれたらなあ」と願った。彼の心にその願いが生じたとき、ちょうど上方の世界で寿命が尽きた神々たちが、それぞれの個人的なカルマの力によって、このブラフマー世界に生まれ落ちてきた。彼らは本来、大ブラフマー神の同類として同じ世界に生まれてきたのである。
<§6>すると、先に独り生まれていた大ブラフマー神は自らが「ああ、他の者たちも生まれたらなあ」と願った途端にこれらのブラフマ世界の神々が世界に生まれてきたのを見て、「私の願いがこれらの神々を創造したのだ。彼らは私の創造物だ。私は創造主なのだ」と勘違いした。自分が創造の神であるという、誤った慢心が大ブラフマー神に生じた。【解説:ここに、ブラフマー神が世界を創造したと信じるバラモン教の宇宙開闢説に対する、仏教徒からの諧謔的な批判が見られる。【172】大ブラフマー神が勝手な誤解によって自分が創造神であると信じ込んでいるにすぎないと仏教徒はいう。それぞれの階層に住む神々は、自分より下の階層の世界を眺めることはできても、自分よりも上の階層の世界は知らないからである(倶舎論 3, 72cd)。】
<§7>後から生まれてきた神々も、先に独りで存在していた彼を見て、「われらはこの方によって創造されたのだ。この方が造物主なのだ。われらを支配する者なのだ」と誤解した。たしかに大ブラフマー神は他のブラフマー神たちと比べて、寿命・容姿・威厳・神通力などで勝っていたゆえ(立世 224a1-3; Loka-p I, 199)、彼は他の生き物たちを統べる者となった。
<§8>その後も、大ブラフマー神の近侍としてのブラフマー神たちの誕生が、それぞれ白浄の宮殿の出現をともなって(立世 224a6-7)、大ブラフマー神の住む世界で1小劫の間続いた。これらのブラフマー神たちはブラフマ・パーリシャッディヤ天(brahmapaari#sadya 梵衆天)つまり「ブラフマー神の近侍たる神々」という<註6>。
<§9>1小劫の後、大ブラフマー神の住む世界とは独立した、別のブラフマー世界が下方に発生成立した。その下位のブラフマ世界はブラフマ・カーイカ天(brahmakaayika 梵身天)という<註7>。その世界で神々の誕生が続いた。
<§10>それから、さらに1小劫の後、ブラフマ・カーイカ天(梵身天)のブラフマー神たちの住む世界とは別個のブラフマ世界が下方に発生成立した。その世界はブラフマ・プローヒタ天(brahmapurohita 梵輔天)という。その世界で神々の誕生が1小劫の間続いた。
<§11>以上でブラフマ世界の形成が終わり、その下位の世界である欲望の領域(欲界)の成立が始まる。まず、欲望の領域の頂上の世界である、パラニルミタ・ヴァシャヴァルティン天(paranirmitava%savartin 他化自在天)の世界がカルマの力によって生じた。
<§12〜15>他化自在天の世界の下方に1小劫後にニルマーナ・ラティ(nirmaa#narati 化楽天)の世界が生じ、さらに1小劫後に化楽天の下方にトゥシタ天(tu#sita 兜率天)が生じ、1小劫後にトゥシタ天の下方にヤーマ天(yaama 夜摩天)が生じた。それぞれの世界で、神々の個人的なカルマの力に動かされて、宮殿の発生をともなう神々の誕生がつづいたのである。
<§16〜17>ヤーマ天の神々たちは、かつて前世において、世界が滅びる前の地上の姿を見た者たちであった。彼らは夢を想い出すように前世の記憶を想い出して、下方の、かつて地上があった場所を見たいと思い、そこに降りていった。【171】彼らは三々五々あちこち飛遊しながら「ここにはむかし、スメール山(須彌山)があった。そのスメール山の頂上にはインドラ神(帝釈天)の都城スダルシャナがあった。ここには7つの環状山脈があった。ここに内海があり、ここには外海があった。ここにはジャンブ洲(閻浮堤)があった」などと、地理を想起していった。すると虚空を強く飛翔するヤーマ天の神々の身体から風が生まれ、その風がカルマの力によってみるみる増大して、かつてあった場所に、ヤーマ天の想起どおりに地上の世界を創造するために、巨大な風となって何もない空間を吹きすさんだ。無の空間に生まれたこの風は、円筒状にとぐろをまくように吹き、地上の世界を支える基盤としての「風輪」を形成した。風輪の筒の直径は 1,203,450 ヨージャナ、筒の高さは 960,000 ヨージャナである(立世 225a16-18; Loka-p I, 201)。
<§18〜19>次に風輪の上に、カルマの力によって雨雲がわき起こり、すさまじい雨を降らした。雨は数十万年降りつづいた。周囲をとりまく風は、生まれた莫大な量の雨水を、まるで透明な器のように包みこんで受けて、流れ出ないようにした。こうして円筒状の風輪の上に、円筒状の水輪が形成された。水輪の筒の直径は 1,203,450 ヨージャナ、筒の高さは 480,000 ヨージャナである(立世 224c13-15; Loka-p I, 202)<註8>。
<§20>まるで煮られた牛乳が冷める時に、表面にクリーム状の膜が形成されるように、「水輪」の表面にしだいに厚い泥の膜が形成された。それは土の層となった。これが大地である。円筒状の地界の直径は 1,203,450 ヨージャナ、筒の高さは 240,000 ヨージャナである(立世 224c20-21; Loka-p I, 202)。大地の名をマハー・ラサー (mahaa-rasaa 大味) という(立世 224c16)。
<§21>やわらかい泥の大地の上を風が吹き、地形を形成した。風は土を盛り上げて山を作り、地を掘り下げて海となるべき窪みを作る。こうしてヤーマ天の想起つまり世界の過去の設計どおりに、風はまるで意志があるもののようにカルマの力に動かされて、スメール山や、スメール山頂のインドラ神の都スダルシャナの城壁や掘や池の地形などを形成し、またスメール山をとりまく七つの環状山脈、環状内海やその外側にある外海、その外のチャクラヴァーラ山の地形を造った。
<§22>また風はスメール山の東西南北の四方角にそれぞれ円形 (!)、円形、台形、四角の(立世 225a26-28; 179c28 f.) 形状の異なった四つの大陸を形成した。
<§23>さらに風は地上のあらゆる物を吹いて、それらを固い性質にする。固い性質に変化した(すなわち結晶化した)大地の精純なる部分が宝石類となる。【170】スメール山、七つの環状山脈などは宝石や貴金属となった。
<§24>風によって、海底となるべき地の窪みが形成された後、やがて世界形成のカルマ(共業)の力によって空に雲がわきおこり、すさまじい雨が降り始める。莫大な量の雨水によって大地は水に浸され、風が造ったあちこちの地の巨大な窪みは水に埋めつくされて、海が形成された。また四大陸やスメール山上にある池や湖や堀などが水で満たされた。
<§25〜27>こうして地上世界の形成が終了した後、スメール山頂に四峰ができ、またスメール山の山腹にベランダのように出張った四つの円環状の段(パリシャンダー)ができた。そしてスメール山頂やスメール山腹の四つのパリシャンダーや七環状山脈の上に居住する神々である三十三天や四大王天などが次々に誕生した。これら地に近い住所をもつ欲界の下級の神々は集団生活を営み、男女の性別があって、生理的な欲求をもち、生活の世俗さは人間とあまり変わらない(倶舎論 3, 69)。
<§28〜29>スメール山頂にスダルシャナ(善見城)という神々の都城がインドラ神を王として出来、スダルマー(善法堂)という集会堂が建てられた。ユガンダラ環状山脈などの上にもそれぞれ東西南北に四大王天が住む四つの都城が建てられた。
<§30〜31>さて、地に近い住所をもつ神々の誕生したのは第18小劫においてであるが、彼らに続いて第19小劫から、初めて人間が地上に生まれでた。神々が寿命尽きて各自の前世のカルマによって地上に生まれ落ちて人間になったのである。人間が初めて自己発生的に地上に姿を現した時、人間はみな虚空をすいすいと自由に遊泳して移動し、自ら美しい光をはなち、男でも女でも両性具有でもない、遥か上方の世界の神々に似た無性の生物であった。憂いも欲望もなく、自らの歓喜だけを食べて生きている存在として、彼らはあった。誰も「存在」(sattva) という名前のほか、名前をもたなかった。みな美しい完璧なる身体をそなえ、肌から光を発していたため、太陽や月などの他の光源を必要としなかった。その当時、世界には太陽も月も星もなかった。昼夜の区別がなく、日も週も月も季節も年もなかった。人間は化生として自己発生的に誕生していたため、親子関係などの血縁関係が一切なかった(立世 225b25-29; Loka-p I, 204)。
<§32>大地を浸していた水が次第に海へと退き始めた時(立世 225c1-3)、水が退いた場所の大地 (rasaa の表面にラサー (lasaa という、クリーム膜のような神話的食物が現れた <註9>。それはすばらしい味をもつものであった。それまで人間たちは食べ物というものを知らなかったが、ある者はラサーが発する(うまそうな)【169】香りに気づき、それに惹かれて、試しに嘗めてみた。純なる蜂蜜に似た、すばらしい味を知った。一口、また一口とすくっては食べた。すると他の者たちも彼を模倣してそれを食べてみた。味に感嘆し、それを食べることに愛着を抱いた。次第に人間はそれを常食とするようになった。
<§33>食をとるようになると、人間の肉体に徐々に変化が現れた。多く食せば食するほど、それだけ肉体が粗重となった。体が重くなると、人間はもはや歓喜だけでは生きられなくなり、生の維持のために常に口から食物を食べつづけねばならなくなった。もはや以前のように空を飛遊することも出来なくなった。身体から発していた光が消えてしまった。
<§34>人間の体から光輝が失せてしまった時、世界は光を失い、真っ暗になった。世界が闇に閉ざされると、生物全体のカルマの力が働いて、初めて世界に月と太陽が出現した。たくさんの星々も現れた。昼と夜が生じ、日や週や月や季節や年の周期が初めて世界に現れた。
<§35>太陽と月の出現をもって、世界は現在のあり様と変わらないものとなった。太陽と月が出現したのは宇宙の形成が始まってから20小劫が経過した時であり、この時に宇宙の1つの時代が終わったと正量部はみなす。それまでを「生成しつつある状態の時代」(成劫)と呼び、それ以降を「生成し終わった状態の時代」(住劫)と呼ぶ<註10>。
2 宇宙の「生成し終わった状態の時代」(住劫)
<§36>ラサー(lasaa を好んで多く食する習慣の人間は、比較的少なく食した人間よりも、肌が黒ずみ、容貌の美しさを失った。それ以前は人間の体は皆一様に完全で、個性と呼べるような肉体的相違は存在しなかったが、長期間にわたる食生活の相違に由来して、肉体に相違が見られるようになったのである。
<§37〜38>人間の肉体に美醜の区別が生じると、人間の意識にも軽侮と尊敬との差別の意識が生じた。容貌の美しい者は、醜い者を軽蔑するようになった。差別意識は軽侮の言葉となって出た。こうして人間の高慢に起因する不善法が世に現れると、それに呼応するかのように、神話的な食物ラサーは地から消失してしまい、人間を絶望させた。すると代わりに別の神話的な食物パルパタカ(parpa#taka「地餅」と漢訳される)が出現した。これは先のラサーよりもやや味が劣った食物であった。それを多く食した人間は先と同様に容貌の美しさを失【168】っていった。
<§39〜40>パルパタカを食べて生きるうちに,美醜の差ができ、再び人間に高慢なる差別の意識が増大した。人間の高慢に起因する不善法がますます世に現れると、それに呼応するかのように、神話的な食物パルパタカは地から消失してしまい、人間を再び絶望させた。代わりに別の神話的な食物ヴァター・ラター(vataalataa が出現した<註11>。これは先のよりもやや劣った食物であった。ヴァター・ラターを食べて生きるうちに,美醜の差ができ、人間は先の絶望と反省を忘れて再び高慢なる差別の意識をもった。
<§41〜42>高慢に起因する不善法がいっそう世に現れると、人間の意識の悪しき変化に呼応するかのように、神話的な食物ヴァター・ラターは地から消失してしまい、人間を再び絶望させた。代わりに別の食物、野生イネが出現した。これはヴァター・ラターより味が劣った食物であったが、現在のイネよりはるかに美味であった。このイネの性質は(神話的な植物の性質を残し)耕作せずとも自然に地に生え、一年中収穫することができた。実は白く柔らかく、胚芽なくぬか層なく、殻皮につつまれていなかったので、脱穀する必要もなく、手で採取してその場で食べられた。
<§43>コメを食べているうちに人間の身体に変化が起こった。以前の神話的な食物と異なり、コメという粗大なる物質の食物の摂取は人間の身体に根本的な生理的変化をもたらした (倶舎論 3, 39a)。肉体に男女の性差が生じ、男性器もしくは女性器が現れた。
<§44>人々は女性の体の特徴を見て、「ああ!堕落したものよ!」と驚き嘆き、女性たちを蔑視した。【解説:ここで女性蔑視の由来が説明される。MSK (3.1.9cd) の説明から察するに、人々は初めて女性の体を見て、肉体の奇形だと考えたらしい。罪深さの故に、肉体の奇形が起こったと考え、女性たちを堕落した者 (du#s#ta) と見なしたのである。】
<§45>性器の出現によって、人々は自分の裸体に羞恥心をいだいた。すると人が陰部を隠すための衣を欲しいだけ果実として与えてくれる、如意衣樹 (kalpadu#sya) という神話的な樹木が地に出現した。
<§46〜47>やがて男女がお互いの姿を眺め合ううちに、激しい性欲が生じた。性欲に駆り立てられて、ある者たちは性交を始めた。【解説:この時まで、性交がないため人間は神々のように化生であったが、これ以降は人間の誕生は胎生に切り替わった。親子関係が生じ、人間社会の形成の出発点となった。】
【167】<§48>性交を行う者たちを初めて目撃した人々は驚き、そのような行為を嫌悪した。【解説:性交が忌避されたのは、醜悪で暴力的な行為と見なされたからである。性交の有様を目撃した人々は、その行為は「彼女を苦しめているのではないか」と考え、「ああ、厭わしいかな!なぜ人が人を苦しめようとするのか」と罵り、男に木片や泥を投げつけた (Loka-p I, 208)。】
<§49>性交を行う者たちは、行為を恥じて、人に見られないように森などに入り込んだりしていたが、回数が増えてきたために、家を建てた。性交を隠すことが、人間による家屋建築のそもそもの動機であった。この頃から夫婦という家族関係ができた (Loka-p I, 209)。
<§50〜51>こうして家を建てて住むようになった人々は、朝に夕べに稲刈りにいった。食事のたびに収穫に行くのがならいであった。人間のもつ福徳の力により、朝にゆくと夕べに刈ったイネはすでに生えていた。夕べにゆくと朝に刈ったイネはすでに生えていた。
<§52>ある不精な性格の者が、いちいち食事のたびに稲刈りにみんな揃って家々から出かねばならないのを億劫がり、たくさんまとめて刈って家に貯蔵しておいた。彼だけ家に残るのを見て皆は利口さに感心し、他の者たちもそれを真似するようになった。それも次第にエスカレートしてゆく。ある者が2、3日分取ると、負けずに他の者は5、6日分取り、それを見てある者は半月分や1月分を取った(Loka-p I, 210)。こうして生じた人間のモラルの低下に呼応するかのように、イネが消失してしまった。
<§53〜54>人間が深く絶望していると、代わりに地上に現れたのが、先のと比べてかなり性質の劣る、現在のイネの種類であった。その新しいイネの性質は、一度刈ったら生えず、栽培のために耕作などの人間の労働を必要とし、実は白くなく美味でもなく、胚芽があり、ぬかがあり、殻皮につつまれている。この現イネの出現から、現在の人間が所属する第9小劫の時代が開始される。顧みると住劫の第1、2小劫はラサーの時代、第3、4小劫はパルパタカの時代、第5、6小劫はヴァター・ラターの時代、第7、8小劫は原初の野生イネの時代であった。これらの時代には人間は遊んでいても暮らしてゆけた。住劫の第9小劫から、いよいよ労働の時代が始まる<註12>。
<§55〜59>現イネが一度刈ったら生えない性質のものであったために、勝手にイネを好き放題に収穫するわけにはゆかなくなり、人々は相談しあった。このような結果を招いたのは人間の不徳行によるものであり、今後またイネの消失【166】が起こらぬとも限らない。モラルを逸脱した行為を防ぐため善後策を考えた結果、イネを収穫する土地をきちんと分割して、境界を定め、各人に田を割り当てることにしようと集会で決定した。
<§60〜62>人々は土地を測り、分割した。男にはそれぞれ6ヨージャナの土地を与え、女にはそれぞれ4ヨージャナの土地を与えた。
<§63>しかしながら人々は、不道徳な行為に再び入り込んだ。人の意識の悪しき変化に呼応するかのように、人間に衣を果実として与えてくれていた如意衣樹 (kalpadu#sya) という神話的な樹木がことごとく大地から消失してしまった。二度とそれは生えなかった。
<§64>人間に衣をそのまま与えてくれる樹は無くなったが、その代わり、労働によって綿布を作る材料を与えてくれるワタの木 (karpaasa) が人類全体のカルマの力によって出現した。
<§65>ある者が貪欲な性質のゆえ、自分の田に稲があるにもかかわらず、他人の土地の稲を無断でこっそり持ち去った。ついに世に盗難という行為が現れた。
<§66〜69>盗難が発覚して人々はその者をなじり、二度としないように約束させた。彼はもうしないと約束したが、嘘であった。彼は稲を盗むことをいっこうにやめなかったため、被害にあって激怒した人々はその者を殴ったり棒で叩いたりして暴力で懲らしめた。こうして世に嘘という行為、さらに暴力と傷害の行為が現れた。
<§70>他の者たちはその男の体の叩かれた傷をみて嘆いた。それは過度の処罰行為、感情にまかせたリンチ行為であるように思われた。暴力をふるった者たちは非難された。
<§71〜74>悲しむ人々は人の世の堕落を嘆きながら、皆で集まって会議をした。盗難をふせぎ、適切な処罰をおこなうには、他に方法はない。監督者としての王を立てることが必要だ。正義の執行者・善の保護者・悪の処罰者としての王の役職には、もっとも人間として淨らかで徳が高く、人間の肉体の醜悪化を免れている人物を選んだらよい。この提案に皆が感激をもって同意した。<§75〜82>会議の代表者がそのような精神的・肉体的にすぐれた性質をもつ一人の高徳者のもとに赴き、最近毎日のように盗難などが起こる悪しき状況を語り、彼のなすべき王という仕事と、六分の一税という人民からの報酬を説明した。汝は王となって正しい人民と大地を守るべきだ。彼は申し出を受け入れた。その選ばれた者と全人民との完全な合意によって、初めて王が灌頂の儀式に基づ【165】いて即位した。
<§83〜85>即位した彼は人民を喜ばせた(√ra%nj-) 故に、王を意味するラージャン (raajan) という言葉ができた。また、その初代の王は、民意によって選ばれたゆえに、マハーサンマタ(大衆によって合意された者)という名称で呼ばれる。王の仕事が稲田 (k#setra) の監督者・支配者であることからクシャトリヤ (k#satriya) という、王とその配下の職業集団をさす言葉ができた。これがのちのクシャトリヤ階級である。
<§86〜92>マハーサンマタ王は民衆の期待どおり、悪人を適切に処罰し、善人を保護し援助した。彼の偉大さによって、世の悪は姿を消した。しかしそれはひとえにマハーサンマタ王が理想の王(轉輪王)であったためであり、悪しき時代の人間の本性が変化したためではなかった。人間に王政が必要になったのはそもそも人間が十善業道という、十のモラルを喪失しつつあったからである。かつて住劫の第1小劫から第8小劫までの理想時代の人間は、無意識のうちに十善業道を守っているとされた。十善業道とは、生き物を殺傷せず、盗まず、邪淫せず、嘘をいわず、ふざけた言葉をいわず、悪口をいわず、人を仲違いさせるようなことを(真実であったとしても)いわず、貪らず、怒らず、よこしまな意見をもたない、の十項目である。ところが人が稲を所有し始めた頃から、すべてのモラルが次第に崩れはじめた。すでに上記の事件において、所有を貪ること、他人の所有する稲を盗むこと、嘘をつくこと、加害することが連鎖的に生じた。十善業道の時代から十悪業道(上記の十のモラルを破ること)の時代に変わったのである。十善業道の喪失、人間の内的なモラルの悪化に対応して、人間の外的な生活条件の悪化が宇宙論的に進行してゆく。生活条件の悪化の結果、人間は生きるために労働せざるを得なくなった。労働が第9小劫以後の時代の特徴である。労働を嫌って田の境界を無視し盗みを始める者が現れた結果、王政が発生した。また労働によって私有財産が確立すると、ますます人間の欲は強まる一方となった。この頃から、社会の階層化がすすんでゆく。カーストの成立が始まる(以下に説明される)。
<§93〜94>ますます悪化にむかう世の嘆かわしい現象はすべて財の所有に起因する、とある人々は考え、所有の悪を排斥して (パーリ語で baahitvaa, Loka-p I, 213) 森に住んだ。彼らはバラモン (braahma#na) と呼ばれる。森で禅定を営んでいたが、ある者たちは禅定を捨てて、ヴェーダなどの呪文を自分で作りだし、その伝承を学び伝えるようになった。禅定しない (*a-dhyaayant-) ゆえ【165】に彼らは学生 (adhyaayaka) と呼ばれる (cf. Loka-p 213)。学生とはバラモン階級の呼び名である。
<§95>ある人々は森のバラモンたちとは逆に、森を出て定住農耕生活を営むことに喜びを見出した。彼らの(田畑で?)懸命に働く有様が力強い牡牛のよう(v#r#san)だったため、彼らはヴリシャラ(v#r#sala)と呼ばれた。のちのシュードラ階級である。
<§96>あらゆる(vi%sva)職人的な技術職の仕事を生業とした人々は、ヴィシュ(vi%s と呼ばれた。つまりヴァイシャ階級である。【解説:このように、バラモンやヴリシャラ(シュードラ)やヴァイシャなどの階級の成立が仏教徒において何等の宇宙神話なしに語られていることに注意しなくてはならない。これは、バラモン教がカースト的階級差別をプルシャ神話などの宇宙神話によって絶対化しようとするのに対する仏教徒からの抗議とみなすことができる。】
<§97>以上の四つの階級に対して盗みを働くことを喜びとしている者たちがいた。盗賊たちは凶悪な者(ca#n#da)であった。その盗賊らを殺す職業の人々(死刑執行人?)たちはチャンダーラ(ca#n#daala 旃陀羅)とよばれた。彼らの職業は良識ある人々から非難され、市民社会の外に置かれた。これがアウト・カースト、不可触賎民の階級の起源である。
<§98〜100>人の食べる植物にも多様性が現れた。人はあまりにコメの味が落ちたため、食欲を失ってしまったが、それを救うかのように、稲が刈られた後の場所から、様々な種類の植物が副食物 (anubhojana) として出現した。すなわち大麦・小麦・胡麻とマメ類(そら豆・隠元豆など)である。胡麻の種子は当時、汁に満ちていて、手に握ると3たびもゴマ油を滴らせるほどであった。大麦などの他の植物も、当時の人間の福徳の大きさとつり合うかのように実に美味であった。
<§101>さとうきびが地に生じた。茎に葉もなく固い皮もないようなさとうきびで、つよく圧搾せずとも得られる汁の味はすばらしく甘美であった。
<§102〜103>さらに、自己発生的に(化生として)乳牛が出現した。彼らは乳搾りせずとも、自ら乳を放出した。乳が桶に注がれると、乳の出る勢いに自然に乳はかきまぜられて生酥 (navaniita) となり、熟酥 (gh#rta) となり、醍醐 (ma#n#da) に変化した。
<§104>象や馬など、人の乗り物となるべき様々な動物が牛につづいて地に出現し、調教せずとも自ら人に馴れた。このようにして現在の人間の生活を成【163】り立たせている家畜や植物がこの時代に出そろった。
<§105〜108>理想の王は伝統的に轉輪聖王と呼ばれるが、マハーサンマタ王が轉輪聖王である証拠に、彼には7つの宝が出現した。轉輪聖王は武力によってではなく、正法によって平和的に全世界を支配する王であり、世は限りなく繁栄する。マハーサンマタ王の統治下で、人間の悪事は一時姿を消した。生きとし生けるものすべてが幸福であった。まばゆい美しさに恵まれた肉体をもつ当時の人々は、幸福の中で極めて長い寿命を享受した。【解説:MSKは正量部独自の時代区分法に基づき、このマハーサンマタ王の時代までを、全き幸福に満たされていた状態 (ekaantasukhaavasthaana) と呼び、それ以後の時代を幸福と苦悩が入り混じりあった状態 (sukhadu#hkhaavasthaana) と呼ぶ。】
<§109〜111>マハーサンマタ王が崩ずると、人民は悲しみにくれながら王の息子を灌頂して王位につかせ、これ以後代々その子孫へと王位は受け継がれていった。王は世襲制になった。しかし初代の王から代が隔たるにつれ、王は理想の王ではなくなり、人民は不幸になった。王や人民のモラルの悪化に対応して、大地は豊饒さを失った。【解説:マハーサンマタ王以降、人間は半ば歴史時代に入る。正量部以外の部派のテキスト(世記経や破僧事)では、王以後の子孫の王の系譜が作られて、歴史的に実在した王の系譜へと接続されている。マハーサンマタ王にまで遡れるということが由緒正しい王の血筋と見なされたからであろう。】
<§112>大地が豊饒さを失い、食糧の収穫が減ったことに気づいた人々は、自分で犂を引いて、土を掘り起こし始めた。農耕具を用いた耕作の始めである。
<§113〜114>この当時、家畜たちは人の言葉がしゃべれた<註13> 。牡牛たちは人間が苦労して犂を引くのをみて、作業を手伝うことを申し出た。自分たちに犂を引くのをまかせてもらいたい、そのかわり代償として収穫の時には分け前をもらいたいという牡牛のリーダーからの提案を人間は承諾し、分け前を約束した。犂牛たちはこうして人と一緒に田畑で働き始め、収穫の一部を得た。
<§115〜116>馬や象などは人の乗り物となった。次第に家畜たちは人間に隷属するようになっていった。牛がのり気ではないのを、むりやり人は乳搾りするようになった。
<§117〜118>人のモラルの悪化に対応して、植物に変化が起こった。あたかも人間の貪欲さから身を護ろうとするかのように、サトウキビは茎に葉を生じて自らを覆った。胡麻はタネに以前ほど油汁をたっぷり含まないようになった。他の植物においても汁が減少した。【162】
<§119>植物から得られるすべての食物がこうして劣悪化したので、人間の寿命は減少した。世代を経るに従い、人のいのちは短くなっていった。
<§120〜122>農夫たちは貪欲になり、はじめの約束を破って犂牛たちに分け前を与えずに、人間たちだけで収穫を独り占めするようになった。犂牛たちは収穫を分配してもらえなかったので、その不正義に心傷つけられ、憤慨し、犂を引く労働をいやがるようになった。人間たちは牛が不従順になり、犂を引くのを拒むのを見て、彼らの背を手ひどく鞭打ったり、彼らの鼻に孔を開けて綱をつけたりして、むりやり労働させた。人間たちの暴力によって恐怖させられた牛たちはこの時以来、言葉を失ってしまった。牛は冷酷なる人間に完全に服従して、耐え難い重さの犂などを黙々と引くようになった。
<§123>人間たちの悪行を見て、馬や象などの動物たちは人に自ら馴れようとはしなくなったので、調教が必要になった。拘留され、鞭で叩かれて、動物は人の暴力に屈服し、調教された。人間が乳を搾ろうとすると、雌牛たちはいやがるようになった。そこで人は固い紐で乳牛たちを動けないようにしばって、巧妙な搾乳の技術をもちいて乳を奪うようになった。
<§124〜125>植物はさらに悪化した。サトウキビは茎が固い皮で覆われるようになったため、汁を搾るのに人は大いに苦労するようになった。胡麻のタネなどは、まるで人間によって摺り棒で叩かれるのに嫌気がさしたかのように、汁がなくなってしまった。
<§126>このような食物の変化で、人間の肉体はますます貧弱化してしまった。
<§127〜128>五濁 (pa%nca-ka#saaya) とよばれる5つの時代悪化の特徴が明らかなかたちで世に出てきた。悪くなったのは肉体ばかりでなかった。人間の思考も悪化した。思想の混乱が世に支配的となった(思想の混乱も五濁の一つで、見濁という)。誤った思想をもつ精神的指導者たちが、不正の道を人々に教えた。彼らに教えられて不正なる生き方をなす者たちは、生活の悲惨に苦しめられ、欲望に駆り立てられて、穢れ多い仕事にも手を染めた。農耕・牧畜・雇われ人・商売など様々な仕事で人々は生計をたてるようになった。
<§129〜131>しかしどれほど激しく労働しようとも、人間にはわずかな快が得られるだけであった。胡麻やさとうきびなどを栽培するのは大いなる労苦であり、収穫後にゴマ油やさとうきび汁などを搾るのがまた大いなる労苦であった。苦労して作った穀物も、固くてまずかった。ひどい食生活によって人の平均寿命【161】はますます低下した。
<§132>地に多くの村落ができ、市場町ができ、都城ができた。
<§133>時代が移りかわるうち、ある時に(現在の劫の初仏である)クラクチャンダ仏が世に出現した。それから長い時を経た時に(第二仏の)カナカムニ仏が出現した。それから長い時を隔てて(第三仏の)カーシャパ仏が出現した<註14>。
<§134〜135>その後、カリ・ユガとよばれる現在の困窮の時代にシャーキャ・ムニ(釈迦牟尼)仏陀が出現した。仏陀の影響化で、人々は悪行をすてた。まるでカリ・ユガから人類の黄金時代のクリタ・ユガにしばしの間、逆戻りしたかのようであった。
<§136〜137>仏陀は六道輪廻の苦を滅ぼす解脱への道を明らかにされた。正しい人々と神々に真理を説いて、入寂された。法の灯明の系譜の、初めの蝋燭の炎のように、次の蝋燭に点火し終えてから、静かに吹き消えた。
<§138>仏陀が涅槃に入られてから二ヶ月後、アーシャーダ (aa#saa#dha) 月の白分の13日から、煩悩を断じた比丘五百人が七葉窟で(第一回の)法の結集をなした。
<§139>涅槃後の百年後に、煩悩を断じた比丘七百人が(第二回の)法の結集をなした。【解説:二回目までの結集は、すべての部派の伝承が共有する汎仏教徒的な結集であり、これ以降の結集はすべて、部派ごとに開催された地域的な結集である。各部派がべつべつに結集を行うことで、それぞれ独自の三蔵の伝承が確定され、同時に独立した部派としての主体性を得た。】
<§140>涅槃後の第四百年、僧団が部派に分立している時代に、一つの部派において僧ヴァートシープトラが結集を行った。以後、その部派はヴァートシープトリーヤ(つまり犢子部)と呼ばれるようになった。【解説:このことは正量部の前身である犢子部が、彼ら独自の部派形成に導いた固有の三蔵の結集によって成立したことをを意味する。】
<§141>涅槃後の第七百年に聖者サンミタ (sa#mmita) が出現し、伝承を結集した。以後、その部派はサーンミティーヤ(つまり正量部)と呼ばれるようになった。【解説:このことは、サンミタのもとで独自の部派形成に導いた一つの結集があり、正量部が成立したことを意味する。】
<§142>涅槃後の第八百年にブーティ(bhuuti) とブッダミトラ (buddhamitra) の二人の僧が主宰となり、かの部派の阿含伝承の結集を行った<註15> 。【160】
<§143>以上が「正量部の5回の結集」と呼ばれる。
<§144〜147>ブーティとブッダミトラの二人はこのように予言して言った:「この第9小劫は、穀物に殻などが出現して、食物などは悪化の一途をたどってきたが、あと七百年が、劫の終わりまでに残されているだけだ。それまでの間、食物はますます劣化し、人間の肉体はますます貧弱化してゆくだろう。現在はまだ、人類の福分のおかげで、胡麻やさとうきびや発酵乳 (dadhi) などから、ゴマ油・砂糖シロップ・純乳脂肪(gh#rta)などを得ることができるが、今後はそれも失われてゆく」と。
*
ここまで読んできて初めて読者には、以上の宇宙の歴史物語が、ブーティとブッダミトラの部派の立場から形成された意見に基づくものであったことが明らかになる。文献XとMSKはブーティとブッダミトラの部派の伝統の中で生まれた、コスモロジー文献である。現代までの第9小劫の歴史は、以上のように、ブーティとブッダミトラの時点から数えて七百年で世界は劫末を迎えることを予言するかたちで、しめくくられている。この、あと七百年しかないという歴史的に切迫した末世観は、正量部の独自の(西アジア的な)終末論的世界観というべきものであり、他の仏教部派の文献には見られないものである。この後に続く物語はいかに世界が滅びてゆくかを記しており、興味がつきないが、紙数が尽きた。また別の機会を待って、続きを記したいと思う。
註
1)この博士論文は間もなく出版される予定である:Kiyoshi Okano: Sarvarak#sitas Mahaasa#mvartaniikathaa, Swisttal-Odendorf, 1998. Indica et Tibetica, Bd. 33.
2)それらの文献の部派伝承の同定の根拠は博士論文の序文 (Einleitung) をみよ。また『印度学仏教学研究』第47巻ならびに『中央学術研究所紀要』第27号に掲載予定の拙稿をみよ。
3)Eug#ene Denis: La Lokapa%n%natti et les id+ees cosmologiques du bouddhisme ancien, Lille, 1977. 2 vols.
4)成・住・壊・空の各時代はそれぞれ20小劫 (antara-kalpa;中劫ともいう) から成る。つまり宇宙の1大サイクル(1大劫)は80小劫から成る。劫(kalpa)という宇宙的時間単位を表す言葉には、仏教では(1) 小劫という単位の劫、(2) 大劫という単位の劫、(3) 成劫・壊劫などという場合の劫など様々な区別がある。【159】
5)文献Xの§5では10小劫ではなく、「20劫の終了時に」とあるが、それでは成劫が終わってしまい、劫数の計算が合わなくなる。文献Xの§4には10小劫とある。MSK (2.1.4) にも10小劫とあり、それに従う。
6)「ブラフマー神の近侍たる神々」:この名称はMSKにないが、文献Xに見られる。チベット訳 tsha+ns 'khor gyi lha rnams (= *brahmapaari#sadyaa#h)。
7)立世 224a5-6 に「独住梵天宮殿」とあるが、大梵天の宮殿は先だって出現している(223c4-5)ゆえ、ここで意味されているのは前後の文脈から判断して、梵身天の宮殿でなくてはならない。「独住梵天」は恐らく誤訳であろう。
8)立世ではここでテキストの順序に混乱がある。立世 224c13の「境水」から225a5 「鐵圍山」までのテキストは、本来 225a25 の「究竟」と「起成」の間に挿入されるべきである。Loka-p は正しい順序を維持している。
9)MSKによればこの食物の名は ラサー lasaaであるが、説一切有部やパーリ上座部などの伝承ではラサ rasa と呼ばれる。立世も「地味」(*p#rthivii-rasa)と訳しているし、文献X (§36) も sa'i bcud zhag (= *p#rthivii-rasa)、Loka-p I, 204 にも rasa という形が出てくる。ラサ rasa とは梵語で「精髄、味」のことである。ラサが美味だったから後世に「味」という意味になった、という神話的な語源解釈がパーリ長部 Agga%n%na-suttanta (§13) や立世 (225c25-28) や Loka-p (I, 206) などに語られる。
10)太陽と月の出現をもって、成劫が終了したと見なす正量部の宇宙論とはかなり異なる意見を説一切有部がもっていることは注意される。有部によれば、成劫という時代が終わったのは、人間が堕地獄の罪を犯して初めて地獄に生まれ変わった時、つまり地獄の衆生が出現した時である。有部では、器世間の形成に第1小劫、衆生世間の形成に第2から第20小劫までの19小劫を割りあてる。衆生世間は神々の世界から始まって地獄に及ぶまで上から下へと形成されてゆく。一番下の段階の、地獄の衆生が発生するのは第20小劫の最後においてである。倶舎論世間品第90頌をみよ。
11)ヴァター・ラター(vataalataa) は説一切有部の伝承ではヴァナ・ラター(vanalataa) と呼ばれる。ラターとは蔓類のことである。
12)ただし以上の食べ物の変化の物語の舞台になっているのは、我々が住むジャンブ洲(閻浮堤)の大陸であって、北方のウッタラ・クルの大陸ではいまでも人間は労働を経験することなしに神話的な食べ物で暮らしているとされる。
13)古代インド人は動物が魂をもつ存在として人間と同等であると信じていたから、動物が言葉を話してもおかしくはなかった。ジャータカなどでも、動物たちは言葉をしゃべる。ジャータカは篤信の仏教徒においてはブッダの前世の実話であると考えられていて、純粋な寓話ではない。この正量部コスモロジーの記述に従えば、動物たちが人間と共通の言葉を話していた時代が古代にあったことになるか【158】ら、動物が主人公として活躍するジャータカをも歴史物語と主張しうる宇宙論的な論拠が与えられたことになる。これはジャータカという仏教文学ジャンルを考える上で大事なことである。
14)MSKにはこの一節に対応する偈がない。なお『フゥラン・テプテル』(稲葉正就・佐藤長 訳、法蔵館、1964年、27〜28頁)に見られる伝承は、クリタ時代にクラクチャンダ仏、トレーター時代にカナカムニ仏、ドゥヴァーパラ時代にカーシャパ仏、カリ時代に釈迦牟尼を、それぞれあてる。
15)この結集の結果、もしブーティとブッダミトラの部派が新しい名で呼ばれるようになったなら、文献Xはその名を記したであろうが、ここに記されていないから、彼らの部派はおそらく正量部の名前にとどまったのであろう。正量部の中で再結集が行われたわけである。この5回目の結集は正量部の中でブーティとブッダミトラの率いる正統派(12世紀までインド正量部の中で最も有力な派であったらしい Kaurukulla 派か)と、それ以外の異端派とが形成されたことを暗示しているのかもしれない。なおブーティの名は文献Xではブーティカ (bhuutika) となっている。
本稿の執筆中、三上俊弘の死の知らせが届いた。5月28日マドラスで交通事故死した若きインド学者三上俊弘の冥福を祈り、この拙い論文を十年間にわたる彼との交友の思い出に捧げます。