この、インターネットで公開する文面は、雑誌に発表した文面と完全に一致しています。誤記や誤植があったとしても、その誤りも歴史の一部ですから、誤りのままここで再現することにしました。
雑誌におけるページづけを示すために【 】の記号を使いました。例えば、【15】は、この記号より以下の文面が該当雑誌の中で、第15頁にあることを意味します。次に【16】の記号が現れるまでの文面全部が、第15頁です。また、【一】とあるのは縦書きの論文の第1ページであり、【1】とあるのは横書きの論文の第1ページを意味しています。横書きの場合、左へページが進むので、雑誌においてはページ番号が次第に若返ってゆく現象が起こります。例えば、【445】の次のページは【444】になります。
サンスクリットの特殊文字は次のように変換しました:
長音のaはaa, 長音のiはii、長音のuはuu。母音のr は#r、母音のlは#lです。
子音は:
k, kh, g, gh, +n
c, ch, j, jh, %n
#t, #th, #d, #dh, #n
t, th, d, dh, n
p, ph, b, bh, m
y, r, l, v
%s, #s, s
h
Visargaのhは#h、Anusvaaraのmは#mです。
次に、ヨーロッパ語の表記について:
ウムラートの付くa, i, u, e, oはそれぞれ%a, %i, %u, %e, %oとしました。
アクサン・テギュの付くe は+eとしました。
アクサン・シルコンフレックス(^)の付くa, i, u, e, oは$a, $i, $u, $e, $oとしました。
アクサン・グラーヴ(`)の付くa, e, u は#a, #e, #uとしました。
セディーユのついたcは、サンスクリットの口蓋音のsの代用として用いられるため、%sと表記しました。
著者:岡野潔
論文題名:「新発見のインド正量部の文献」
発表雑誌:『印度学仏教学研究』47巻1号 (1998年12月), pp. 376-371
【376】
新発見のインド正量部の文献
岡野 潔
一つの作品の発見をきっかけに、一つの新しい研究分野が不意に開けることがある。ここで報告する新しい文献は幸運にもそういう性質のものと思われる。発見された一つの作品とは、Mahaasaa#mvartaniikathaa(『(世界の成立と)破壊についての大なる法話』)という名の12世紀の梵語仏教カーヴィアである。カトマンドゥ地域を中心に進められたNGMPP計画によって確認された夥しい新写本の中で、この作品の写本の発見は、インド仏教・正量部のコスモロジー(歴史的宇宙観・地理的世界観)という、一つの目新しい研究領域の開拓につながるものであるが故に、特記に値する。
この作品はインド正量部のコスモロジーを内容としたカーヴィアであるが、重要なことは、この作品の発見をきっかけに、いもづる式に他の同類の正量部文献が判明したことである。それらは既知のチベット訳・漢訳・パーリの仏教文献の中にあったものであるが、MSKの発見を契機に正量部への部派所属が確認・再確認されたものである。MSKを含めて、確認された現存するインド正量部のコスモロジ−文献は、次の四つである:
(1) Mahaasa#mvartaniikathaa(略号MSK)
(2) 文献X(蔵訳『有為無為決択』第8章に長い引用がある未知の文献)
(3) 漢訳大蔵経中の真諦訳の立世阿毘曇論
(4) ビルマ・タイに伝承されたパーリ語の作品 Lokapa%n%natti(の中核部分)
以上の正量部の4文献の、資料としての豊かさは、一つの研究ジャンルを開くのに十分な量であり、小乗コスモロジーの比較研究の幕開けを告げるものである。特に立世阿毘曇論の部派的位置が定まったことは、部派間の教理の比較において大きな意味をもつ。
本稿の目的は、これら4文献のうち特に前二者を紹介し、またMSKの作者と、彼の他に現存する著作について、知り得たことを報告することである。後二者----立世阿毘曇とそのパーリ語版 Lokapa%n%natti----の部派所属の証明については、『中央学術研究所紀要』第27号の拙稿において十分に行った【375】ので、紙幅の都合上、ここでは論じない。
MSKは全篇韻文の作品で390詩節から成り、16種の韻律を技巧的に用いる美文体の古典梵語文学作品(カーヴィア)である。全篇は6章 (kaa#n#da)から成り、各章は4節(vi%sraama)に分かれる。第1章第1節は作者の序で、仏陀が説かれた(正量部の宇宙論の)教えを広く世の賢者達に知らしめることにこの著作の目的はあると告げる。第2節と第3節は釈迦牟尼の伝記。誕生から成道、舎利弗目連の帰依までを短く物語る。第4節で仏陀の教えがいかに4種の外道の邪説を論破するものであるかを説明する。次の第2章より仏陀の説法の内容に入る前準備として、全体の枠物語の機能をもつこの第1章は、「因縁」(nidaana) と名づけられた。作者は仏陀の教法の因縁(原因)として、仏陀の生涯をまず述べたのである。第2章から、いよいよ仏陀が説く法話として、宇宙の生成と衰滅の全歴史が物語られる。第2章1節から第6章2節まで、世界の成住壊滅の4期の歴史的出来事のすべてが、時間軸に沿って途切れなく語られる。
このカーヴィアの主要部分の種本は、上述の(2)の文献Xである。第2章の冒頭から第6章の途中まで、MSKの内容は実によく文献Xの内容と一致する。MSKの作者Sarvarak#sita(略号 S.)が作品の序 (1.1.2)で「彼(仏陀)によって説かれた宇宙の生成と破壊の法話」(tena pravartitaa vivarta-sa#mvarta-kathaa)と呼んでいるものは、具体的には文献Xであるということになる。では文献Xとは何か。私が仮に文献Xと名づけたものは、チベット大蔵経テンギュル部の『有為無為決択』(東北 No. 3897、大谷 No. 5865)の第8章にある正量部文献の1引用である。ただし1引用といっても10葉に及ぶ長いものである。引用された文献の作品名は不明で、作者も不明である。『有為無為決択』には、P. Skilling (1987) の内容紹介(p. 8) が明らかにするように、この箇所以外にも正量部の文献の引用はいくつかあるが、それらの引用が、第8章の長い引用と同じ文献から取られたものかどうかはわからないため、ともかくも第8章のこの引用だけを文献Xと呼ぶことにする。この文献Xという、ひとまとめに引用されたテキストはMSKの第2章から第6章までの内容と完全に重なっている。このため、MSKの研究にはこの1引用のテキストだけでとりあえずは不足はない。この文献XのMSKとの密接な関係は、文や単語レヴェルにまで及んでいるので、MSKと文献Xのどちらを読む場合にも、両方の文献を絶えず参照することで、より良い読みに到達できる。文献Xの校訂テキストと独訳は私のMSKの校訂本(1998)に付録として含まれている。また文献Xの§1〜147、MSKの第2章から【374】第4章2節までに対応する部分の内容梗概は『文化』62巻1/2号(1998)の拙稿に発表した。MSKと文献Xの正量部所属の根拠は確実である。文献Xは引用されるに際して「聖正量部の伝承聖典 (lu+n)によって」と、『有為無為決択』の著者に出所を記されている。また文献XとMSK(第4章2節)はともに、釈迦牟尼の涅槃以後の歴史として「正量部の5回の結集」という歴史的事件を語っている。文脈上から判断して、両文献は仏陀の(正統の)教えが相承されてゆく様を、正量部の5回の結集の歴史に代表させて語ろうとする意図が明らかである。もしこれらの文献の作者が正量部に属しなかったならば、このような書き方は当然しないであろう。
MSKと文献Xは、成劫の物語(第2章)以降、住劫の第9小劫の現在の物語(第4章2節)まで、動詞は過去形を用い、それ以後の出来事は未来形を用いる。MSKが源泉として基づいた文献Xは、正量部の宇宙論が(壊滅成住の出来事を無時間的に語る)哲学から歴史へと重心を移していったかのような印象を与える。この正量部の歴史への関心の高さは、人類にはあと七百年しか時間が残されていないという、正量部独自の西アジア的なエスカトロジー(終末論)から来ているようである(この点の詳細は『中央学術研究所紀要』27号の拙稿を見よ)。文献Xは------西暦5世紀以後に作られたアビダルマ文献ではないかと思われるが------古い文献に一般に見られるような壊→滅→成→住の順序で解説してゆく伝統を改めて、(過去→現在→未来の図式と重ねて)成→住→壊→滅の順序に変え、阿含以来蓄積されてきた宇宙論の素材を再整理し、一つの年表のような図式をつくって、その図式のもとに一大劫の宇宙の歴史を叙述した。その際に編集者の関心は現在に足場を置いており、いかにして現在の社会と世界が出来たか、今後は現在の世界はどう変わってゆくかを説明することに記述の力点を置いた。正量部では独自の終末思想によって宇宙論を土台にした歴史意識と、現在の世界的状況への批判が芽生え、そこから他部派には見られない文献XやMSKのような「歴史的宇宙論」あるいは「宇宙論的歴史」とでも呼ぶべきユニークなコスモロジー文献が形成されたのではないかと思われる。この新しい研究領域が研究者の興味を引くのは、一度体系化を終えたはずの仏教の宇宙論が、歴史的危機意識をもった正量部の論師によって再体系化されてゆく、その点にある。
さて、MSKの現存する写本の数は私が知る限りで6本ある。いずれもネパール写本で、5写本はNGMPPが撮影したものを使わせて頂いた。貝葉写本 A(西暦1424年)から紙の写本 B(1662年)が筆写され、残りの新しい4本の紙写本はBの子孫と見なしうる。写本情報の詳細は私のMSKの校訂本 (1998) を参照され【373】たい。MSKの校訂にはA, B2本の写本が常に参照され、これらの写本から、わずかなテキストの欠損を除き、ほぼ完全な形で梵文テキストが得られる。
MSKの写本のコロフォンに、k#rtir aacaarya-%srii-bhadanta-sarvarak#sitasya mahaakave#hとあり、「大詩人(mahaakavi)で阿闍梨(aacaarya)・栄誉ある大徳 (%srii-bhadanta)なる一切護(Sarvarak#sita)の作」と知られる。詩人の名前は明らかに出家名である。
S.についての記述は、MSKにはこのコロフォン以外にない。この人物について広く別の著作を探してみると、次のことがわかる:
(1)まずベンガルに住む文法学者 %Sara#nadeva が、彼のパーニニ文法学についての著書 Durgha#tav#rttiにおいて、序詩に%srエ-sarvarak#sita(栄誉ある一切護)の名を、また最後のコロフォンに%srii-mahaamahopaadhyaaya-%srii-sarvarak#sita(栄誉ある最も偉大なる和尚・栄誉ある一切護)の名を、著者の頼みに応じてこの文法書を短縮し改訂を行った人物としてあげている。%srii(栄誉ある)という尊称が、MSKのコロフォンの作者と同一人物であることを匂わせる。詩人であり同時に文法学者であることはインドでは珍しいことではなく、例えば仏教の学匠では Candragominがそうであったし、S.の直弟子らしい文法学者%Sara#nadevaも、Lak#sma#nasena王の宮廷詩人の一人%Sara#naと同一人物とみなされ(註1)、詩人として有名だったらしい。MSKの執筆において用いられた古典梵語は流暢・高雅であると同時に極めて正確であり、文法学者にふさわしいものであることも、MSKの作者S.が%Sara#nadevaの知る文法学者S.と同一人物である根拠となる。Durgha#tav#rttiは西暦1172年に完成した作品であるが、その書における言及は、S.という詩人の活躍した年代と地方を決める最重要なる手がかりとなる。文脈から判断してS.は%Sara#nadeva にとって師にあたる人物らしいこと、また%srii-mahaamahopaadhyaaya という大層な尊称から、50歳以上の年齢を想像できる。ベンガルの%Sara#nadevaと親しい間柄だったとすると、詩人も東インド(ビハール・ベンガル・オリッサなど)に住んでいたのだろう。以上のことから、12世紀の中頃に文法学や作詩の著作活動に従事した、東インドの正量部の一出家比丘の姿が浮かんでくる。
(2)さらにS.にはVaasavadattaa-#tiikaaという、Subandhu (6〜7世紀)の難解さで名高い散文詩への註釈の著作があることが、カシュミールのRaghunatha
Temple Libraryの蔵書を調査したM. A. Stein (1894) の梵語写本カタログから判明する(註2)。S.が上述の如く、文学者であると同時に文法学者でもあったとすれば、このような彼の両方の専門領域の中間にある、文学作品への学者的な註釈があったとしてもお【372】かしくはない。この51葉から成る完全な一写本(No.
301)として現存する著作は未出版のようであるが、彼の両方向の活動を橋渡しする位置にある点で実に興味深い。
(3)Vallabhadeva が15世紀頃に編集したと推定される詞華集Vidagdhajana-vallabhaaは、S.の作品から1偈を引いている。この未刊行の詞華集の写本を発見し研究したRaghavan
(1963)の論文は、その1詩節の冒頭部分のみを紹介しているにすぎないが、それによれば、anta#h
prave#s#tum labhate というパーダで始まる詩節である(註3)。このような出だしをもつ詩節はMSKには見あたらないから、恐らくS.の別の作品が存在し、それから引かれたのであろう。詞華集に記された作者名は
bha#t#ta-sarvarak#sitasya(「サルヴァラクシタ博士の」)とあり、bha#t#taという尊称はこの詩人が学者でもあったことを裏付ける。-------以上の2点の資料は、S.の生存年代がSubandhu以後で、Vallabhadeva以前であること、つまり(1)の資料が示唆する12世紀の推定年代を大まかに裏うちするものである。さらにベンガルのジャガッダラ僧院に住した仏教徒のVidy渓araが11世紀に編纂した詞華集Subhaa#sitaratnako%saに、同じ東インドの仏教の学匠S.の詩作が含まれていないということも、12世紀説を裏付ける状況証拠になる。
(4)S.には別の文学作品が存在することの決定的な証言となるのが、ツッチのチベット旅行記である。ツッチはチベットを1948年に旅した旅行記としてTo Lhasa and Beyond (1956)を出版したが、この英語版の151頁に Kongkachodra (Ko+n dkar chos grva) という寺院(註4)で2本の梵文貝葉写本を得た経緯を記している。その2貝葉写本のコロフォンにある作品名を彼の旅行記は註55(p. 179)に次の様に記している:"Abhidharmasamuccayakaarikaa by Sa+nghatraata and Ma#nicuu#dajaataka by Sarvarak#sita". ------ここで私達は再びS.の名前に出合う。しかも別の作品の著書として。私達はMSKの発見によりS.が正量部の詩人であることを知ったが、ツッチはこの時点でそれを知らない。しかしツッチ(1956)は、日本での講演において、Kongkachodra寺で獲得した2本の貝葉写本のうち1本が正量部に属する作品らしいことを明らかにした。それは驚くべきことに、Ma#nicuu#dajaatakaの方ではなくしてSa+nghatraataのAbhidharmasamuccayakaarikaa の方であった。これは偶然でありえるだろうか。ツッチが同じ寺院で得た2本の貝葉のうち、1本は正量部の教義綱要書、もう1本はMSKと同一の作者名をもつ韻文の文学作品である。この符合が偶然ではないとすると、2写本は同じ由来因縁をもち、特にMa#nicuu#dajaatakaが正量部のMSKの作者による姉妹作品であることは疑いない。ツッチ(1956)が報告して【371】いるMa#nicuu#dajaatakaの写本のコロフォンの作者の尊称がMSKのそれと実に類似しているのも、その確信を裏付けるものである(註5)。
こうしてMSKの外に正量部の部派伝承を伝える貴重な梵文の作品がさらに2本、現代にまで保存されていたことが判明する。ツッチが入手したこの2本の写本は現在行方不明であるが、ローマで再発見される日を期待せずにはいられない。
この2写本をツッチは先の旅行記で8〜9世紀の筆写と見ているが、これは上で推定したS.の年代(12世紀)と合わない。Abhidharmasamuccayakaarikaa の写本のコロフォンにはNalendraで筆写された旨が記されているが(註6)、NalendraをインドのNalendra(つまり有名なNaalandaa)ではなくチベットのNalendra僧院(Lhasaより西北30km)と解釈するのが妥当と私は考える。すると、筆写年代はNalendra僧院の創立年(1435年)より後になる。これはツッチ自身が記している写本の第一印象("They were as fresh as if they had just left the hands of the copyist.")と合致すると思われる。写本のMa#nicuu#dajaatakaという題名は、有部伝承の説話名の如くMa#nicuu#daavadaana----この名称のネパール梵文写本にはHandurukandeやHahnの研究がある(註7)----ではないことは、有部の伝承に依る作品ではないことを推定させる。MSKの如く正量部の伝承に基づき、ジャータカの1物語を種本にして、古典梵語のカーヴィアに仕立てた作品と思われる。ツッチ(1956)の報告によれば、この作品にはプラークリットの詩節がいくつか混じっているという。どんなプラークリットであるのかツッチは明確にしていないが、写本が再発見されれば、それは正量部がいかなる言語でジャータカなどの聖典を伝持していたか-----はたしてプトゥンの仏教史が伝えるように正量部はアパブランシャ語を使用していたか----の決定的な証拠を与えるものとなる。
またツッチ(1956)は、これら2写本は「いわゆる『矢のように尖った書体』で書かれている」と報告しているが、このことは実に興味深い。というのは、パーラ王朝時代に東インドの正量部は"arrow-head script"と呼ばれるBhaik#sukii文字を使用していたらしいことが碑文研究から指摘されているからである(註8)。
註を省略する。参照した論文・文献は私のMSKの校訂本にすべて記したので、そちらを参照されたい。省略した註はInternet の私のホームページ http://member.nifty.ne.jp/OKANOKIYOSHI (向山比較文化研究所)で公開する予定である。
<キーワード>:正量部、Sarvarak#sita、宇宙論
(東北大学非常勤講師、Ph.D)
【370】
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以上が雑誌に掲載された部分です。
この論文の英文タイトルは:Newly Identified Works of the Saa#mmitiiyas.
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註
雑誌掲載時の紙幅の都合により省略された(従って掲載されなかった)註は以下の通りです:
註1:Sternbach (1978-80), II, pp. 512-514、またRenou (1941-1945), I,
pp. 48-49を見よ。
註2:M. A. Stein (1894), p. 81 を見よ。この写本の存在は、Renou (1941-1945),
I, p. 49, note 4から教えられた。
註3:Raghavan (1963), pp. 138, 152を見よ。このRaghavan の論文にSarvarak#sitaの1詩節があることは
Sternbach (1978-1980), Vol. II, p. 589, no. 1764から知った。Raghavan (1963)の論文を入手できたのはインド留学中の足沢一成君の尽力による。
註4:この寺に、1995年9月7日、正木晃とツルティム・ケサン(白館戒雲)らの一行が訪れ、さらに正木は1996年5月に助手の三宅伸一郎とともに、もう一度訪れ、この寺院の外部や内部、特に2階の「イダム堂」の壁画のカラー写真を中心に本をつくって出版した(正木晃・立川武蔵『チベット密教の神秘』1997年、学習研究社)。正木晃によれば、この寺院の名はコンカル・ドルジェデン寺(コンカル金剛宝座寺)だが、ツッチの報告する寺と同一と思われる。Gyurme
Dorje のTibet Handbook には両方の名称が記載されている(223頁)。
註5:ツッチ(1956), pp. 2-3 によればコロフォンの文面は次の通り:「大詩人大徳サルヴァラクシタ(Sarvarak#sita,
一切護?)論師作るところのマニチューダ・ジャータカ(Ma#nicuu#dajaataka)ここに畢る」。
註6:ツッチ (1956) p. 2 は次のようにコロフォンを報告している:「以上は聖正量部の阿毘達磨によって説かれたる所なり。・・・・・大詩人規範大徳サンガトラータ作
阿毘達磨集論畢れり。・・・・・ナレーンドラにおいて書かれたり」。
註7:M. Hahn (1974), pp. 13-24を見よ。なおこの著作でツッチが発見したMa.nicuu.dajaatakaの著者名としてSa+ngharak#sitaと記されているが(pp.
14, 22)、Sarvarak#sitaの間違いである。この誤りは、C. Pensa (Indian Studies
Abroad, Bombay, S. 47)の誤記に基づくものらしい。
註8:並川 (1987) とNamikawa (1993) p. 153とP. Skilling (1997), pp. 108-113を参照。並川
(1987) の論文、また同じ著者による英文の論文Namikawa (1993) は、Bhaik#sukii
lipi の文字で書かれた仏教碑文を正量部に結びつける。彼はパトナ本 Dharmapada
の伝承部派を正量部と推定し、パトナ本Dharmapada と碑文との言語的類似性を指摘した。Peter
Skilling (1997) の論文も、(奇妙にも)並川の名を記さずに、並川と同様の指摘を行って、Bhaik#sukii
lipi の仏教碑文を正量部所属とする。Bhaik#sukii lipi の碑文の出土地が、玄奘の大唐西域記の報告によれば正量部の僧が多く住んでいた場所にあたることが立論の一根拠となる。von
Hin%uber (1989)は Bhaik#sukii lipi の碑文とパトナ本Dharmapada との言語的類似性に注意するものの(p.
365, note 62)、彼は部派不明の立場を取る。
引用文献・参照文献
欧文文献
Namikawa, Takayoshi (1993): "The Transmission of the New Material Dharmapada and the Sect to which it Belonged", 『仏教研究』22、pp. 151-166.
Okano, Kiyoshi: Sarvarak#sitas Mahaasa#mvartaniikathaa, Swisttal-Odendorf, 1999. Indica et Tibetica.
Raghavan, V. (1963): "The Vidagdhajanavallabhaa", in: The Silver Jubilee Volume of the Sanskrit Journal of the Kerala University, Or. Ms. Library, 12. 1-2 (1963), pp. 133-154.
Renou, Louis (1941-1945): La Durgha#tav#rtti de %Sara#nadeva, Paris.
Skilling, Peter (1997): "On the School-affiliation of the "Patna Dharmapada" ", JPTS, XXIII, pp. 83-122.
Skilling, Peter (1987) : "The Sa#msk#rtaasa#msk#rta-vini%scaya by Da%sabala%sriimitra", Buddhist Studies Review, 4.1, pp. 3-23.
Skilling, Peter (1982): "History and Tenets of the Saammatiiya School", Linh-So'n --- Publication d'Etudes bouddhologiques, 19, pp. 38-52.
Stein, Marc Aurel (1894): Catalogue of the Sanskrit Manuscripts in the Raghunatha Temple Library of His Highness, the Maharaja of Jammu and Kashmir, Bombay / London / Leipzig, 1894.
Sternbach, Ludwik (1978-1980): A Descriptive Catalogue of Poets Quoted in Sanskrit Anthologies and Inscriptions, Bd. 1: (1978), 2: (1980), Wiesbaden.
von Hin%uber, Oskar (1989): "Origin and Varieties of Buddhist Sanskrit", in: Caillat, Colette, Hrsg.: Dialectes dans les litt+elatures indo-aryennes, Paris. pp. 341-367.
邦文文献
並川孝儀 (1987):「新資料ダルマパダの伝承 ---- パーラ王朝期の碑文との関連よりみて ----, 『印仏研』 35-2, pp. 954-950.
ジゥセッペ・ツッチ(1956):「チベット及びネポールにおいて新たに発見せられた佛教典籍について」、『大谷学報』36巻1号.
正誤表
p. 376
(誤)Mahaasaa#mvartaniikathaa → (正)Mahaasa#mvartaniikathaa