この、インターネットで公開する文面は、雑誌に発表した文面と完全に一致しています。誤記や誤植があったとしても、その誤りも歴史の一部ですから、誤りのままここで再現することにしました。
雑誌におけるページづけを示すために【 】の記号を使いました。例えば、【15】は、この記号より以下の文面が該当雑誌の中で、第15頁にあることを意味します。次に【16】の記号が現れるまでの文面全部が、第15頁です。また、【一】とあるのは縦書きの論文の第1ページであり、【1】とあるのは横書きの論文の第1ページを意味しています。横書きの場合、左へページが進むので、雑誌においてはページ番号が次第に若返ってゆく現象が起こります。例えば、【389】の次のページは【388】になります。
 
サンスクリットの特殊文字は次のように変換しました:
長音のaはaa, 長音のiはii、長音のuはuu。母音のr は#r、母音のlは#lです。
子音は:
k, kh, g, gh, +n
c, ch, j, jh, %n
#t, #th, #d, #dh, #n
t, th, d, dh, n
p, ph, b, bh, m
y, r, l, v
%s, #s, s
h
Visargaのhは#h、Anusvaaraのmは#mです。

次に、ヨーロッパ語の表記について:
ウムラートの付くa, i, u, e, oはそれぞれ%a, %i, %u, %e, %oとしました。
アクサン・テギュの付くe は+eとしました。
アクサン・シルコンフレックス(^)の付くa, i, u, e, oは$a, $i, $u, $e, $oとしました。アクサン・グラーヴ(`)の付くa, e, u は#a, #e, #uとしました。セディーユのついたcは、サンスクリットの口蓋音のsの代用として用いられるため、%sと表記しました。 


論文題名:「仏陀が永劫回帰する場所への信仰----古代インドの仏蹟巡礼の思想----」
発表雑誌:印度学宗教学会『論集』、第26号、平成11年、77〜92頁。


【77】


  仏陀が永劫回帰する場所への信仰
----古代インドの仏蹟巡礼の思想----

岡野 潔

はじめに
この論文で考察したいのは、古代インド仏教徒における永遠なる場所への信仰である。世界に「永遠なる場所」があるとすれば、それは静的に存在している場所ではなく、動的に反復して存在しつづけている場所である。仏教徒によれば世界は繰り返し滅びて(滅劫)あらたに創られる(成劫)という運動の中にあるから、永遠なる場所というのはその運動の中で反復して出現し続けるというかたちでしか存在しえない。しかしそのような定点の如き場所が世界に存在すると古代インド仏教徒は信じていたらしい。その信仰をここで論じたい。
この「場所の永遠反復」の信仰は、密接に「仏陀の永遠反復」の信仰と繋がっている。仏陀は繰り返し滅びては形成される世界の中で、反復的に出現する存在であるという信仰である。反復して出現する仏陀の生涯には、とりわけ永遠反復性のつよい行為がいくつかある。それは仏陀が悟りを得るという行為(成道)と、伝道を開始するという行為(初転法輪)などである。これらの行為は、過去現在未来のすべての仏陀に共通する行為である。この共通性の認識が、インド人の思惟形態の中では、同一性の認識となった。仏陀の生を反復的に考える傾向は特に大衆部系において強かったようであるが、この傾向においては、仏陀の伝記の内容が同一反復的に考えられるようになる。釈尊の伝記はそのまま他の仏陀の伝記と共通するものとなる。このような考え方は既に阿含の大本経に萌芽があるが、大衆部系の発達仏伝たるMahaavastuやLalitavistaraにおいては、その「仏伝の永遠反復」という思想がより明確なかたちで出てくる。私の先行する論文はそのことを論じた(註1)。この「仏伝の永遠反復」という思想が前提的にあって、その上に、仏陀が成道した場所や初転法輪した場所などが永遠に同一に反復されるという「場所の永遠反復」の思想が出てくる。例えば、釈尊が成道した場所である金剛道場は、すべての過去未来の仏陀が必ずそこにやって来て成道する場所であると信じる、そのような場所への信仰が現れる。図式的に、次のような二段階の思考が、仏陀の「場所の永遠反復説」をつくったと考えるとわかりやすい。

 第一段階、「行為の永遠反復」: 釈尊の生涯における格別な行為が、過去未来のすべての仏陀によっても永遠反復されるものとみなされる。
 第二段階、「場所の永遠反復」: すべての仏陀によって格別な行為が反復される時、その行為がなされる特別な場所は、同一処であるとみなされる。


この第一段階を拙稿「仏陀の永劫回帰信仰」で先に考察したわけであるが、次の第二段階を扱うのが本論文である。すべての仏陀が反復して格別な行為を行う場所、過去から未来にわたって繰り返し存在しなくてはならない場所、そのような永遠なる場所への【78】信仰は、恐らく仏跡巡礼の流行から出てきたに違いない。したがってこの第二段階への考察は、インドの仏跡巡礼の思想の研究となる。

1.四大聖地の成立    
インド仏教徒の四大聖地巡礼を語る最も古い文献は阿含の大般涅槃経である。誕生地Lumbinii・菩提地 Buddha-Gayaa・初転法輪地Vaaraa#nasiiの鹿の苑(M#rgadaava)・般涅槃地Ku%sinagariiの四大聖地の名がそこにあげられている。大般涅槃経の種々のヴァージョンの中でその四大聖地の記述が欠落しているものは、白法祖本だけであり、他の5本のヴァージョンはすべて四大聖地を説き、その名称も同じである(註2)。このことから、四大聖地という考えは上座部の部派分裂以前に確立していたと思われる。仏滅後百年のアショーカ王も仏跡巡礼を行ったらしい。アショーカ王の時代に仏跡をめぐるという信仰行為が既にあったと思われる。四大聖地について、梵文の大般涅槃経は「信仰心のある良家の子女によって、生涯いつまでも追憶されるべき地所」と、表現している(Teil III, S. 388)。聖地は釈迦の追憶の地であった。しかし聖地巡礼は、釈迦牟尼の生を追憶するためだけではなく、それ以上の積極的な宗教的意味をもっていたようである。仏蹟地は次第に巡礼者にとってたとえば梵語版の大般涅槃経が語るように(註3)、巡礼という行為によって「誰でも、たとえ煩悩の残余があったとしても、天界に赴くことができる」ようになる、そのような奇跡の場として(カルマの法則を飛び越えさせてくれる宇宙の例外的な場として)宗教的に積極的な役割を果たすようになってゆく。コスモロジー的な意味を付与された場所になってゆく。
では、なぜ「四」大聖地なのか。仏教徒の聖地観の背後にある宇宙観が、特に四という数字を選んだと思われる。仏陀の生涯における重大な出来事と宇宙の運行とは密接な関係にある----そう古代インドの仏教徒が信じていた証拠となるような文が、大般涅槃経の1ヴァージョンである遊行経(大正 1, 30a)にある:

沸星が二足尊を生じたり。沸星が叢林の苦より出でしめたり。沸星が最上道を得しめたり。沸星が涅槃城に入らしめたり。 
八日に如来が生じ、八日に佛が出家し、八日に菩提を成じ、八日に滅度を取りたまいぬ。 
【79】八日に二足尊を生じ、八日に叢林の苦より出でしめ、八日に最上道を得しめ、八日に涅槃城に入らしめたり。 
二月に如来が生じ、二月に佛が出家し、二月に菩提を成じ、二月に滅度を取りたまいぬ。 
二月に二足尊を生じ、二月に叢林の苦より出でしめ、二月に最上道を得しめ、二月に涅槃城に入らしめたり。

ここで挙げられている仏陀の生涯の四つの出来事は、誕生と出家と菩提と般涅槃であって、四大聖地の誕生地・菩提地・初転法輪地・般涅槃地と一つだけ違っている。しかし「四」に神聖な宇宙の法則を感じていたらしい古代インド仏教徒は、ここに見られる文と全く同じ発想の上で、「四大聖地」を考えたと推測してかまわないであろう。古代インド仏教徒が聖地の数としては偶数、特に四か四の倍数の数字にこだわったのは、四方角や八方角というように、四や八という数が、宇宙的な空間配置や、コスモスの全体的調和の姿を感じさせるからであろう。
釈尊の死後、遺骨が八つの場所に分骨されて、八つの舎利塔となり、瓶塔・炭塔を加えて合計で十塔が建てられたことを大般涅槃経は報告するが、それら十の場所は、仏教聖地としては最も古いはずであるものの、結局はそのほとんどが重大な聖地にならなかった。そのわけは、仏滅後百年にアショーカ王がそれらの八塔のうち、七塔を開けて舎利遺骨を取り、分骨して八万四千の塔を作ったためであろう。そのような徹底的な聖遺骨の拡散は、聖遺骨の塔のもつ宗教的意味を薄れさせた。さらに、釈迦の遺骨の安置所がインド仏教徒にとっては必ずしも巡礼地のすべての場所を意味するわけではない点が注意されるべきである。アンドレ・バローによれば、釈迦の遺骨の安置所がストゥーパ stuupa と呼ばれ、巡礼にとっての聖なる場所がチャイティア caitya と呼ばれたのであるという(註4)。私もこの解釈に賛成であるが、このように両者の違いが区別できることは、宗教学的にかなり意味深い。ストゥーパとチャイティアの語義の違いとは、やや極端に表現するならば、聖遺骨の場所と、釈迦の生涯の大事件が起こった場所との、聖なる「場」のもつ性質の違いであるといえよう。インドの仏教徒は、釈迦の遺骨の有る場所よりも、釈迦の生涯の重大事件が起こった「場所」そのものに、大きな神秘的な宇宙的な力を感じたらしい。釈迦の生をかくあら【80】しめた場所の「場」そのものを、釈迦の遺骨の安置所よりも重視するところに、古代インド人の特異な宗教性を見ることが出来る。四大聖地の「聖地」にあたる言葉はチャイティア caitya である。
四大聖地の中で、最も尊ばれるものは、菩提道場である。菩提道場 bodhima#n#da という聖なる場所が古代インド仏教徒においてどのように宇宙的に特別の場として考えられていたか、それを如実に示すものが、仏伝文献にある:梵文仏伝Mahaavastu (ed. Senart, II, 262-263) 、ならびに仏本行集経の向菩提樹品 (大正 3, 777c)の対応箇所において、この菩提道場の「地所」 (p#rthivii-prade%sa) のもつ16の特性が挙げられている。紙幅の関係上、その特性の列挙は省略するが、仏本行集経と Mahaavastu があげる「菩提道場の地所のもつ16の特性」の記述中に注目すべきは、その特性の第1番にあげられる次の特性である:「この地所 p#rthivii-prade%so は、劫末に世界が破壊されつつある時に、一番最後に滅ぶ地所である。また劫初に世界が成立しつつある時に、一番最初に生じる地所である。この世界の最も中心に位置する地所である」。----この記述から、仏教徒たちにとっての仏蹟の場所の意味がすでに質的に大きく変化し、釈迦牟尼の「追憶の場」から宇宙の中心地としての「宇宙的な場」へと変わったことがわかる。当時の民衆的な仏伝説法師たちが菩提道場という場所の神話化に積極的に寄与していたらしい。
四大聖地の中でも「釈尊が菩提を得た土地」の神話化が最も進み、菩提道場という場が劫ごとに反復されるものと信じられるようになったことは、上記の Mahaavastu の記述から確実であるが、このような菩提道場の「永遠反復観」の萌芽は、長阿含の大本経(Mahaapadaanasuttanta, 梵語版 Mahaavadaanasuutra)に見ることができる。この経の中には、過去七仏が成道した時に彼らの「菩提樹」となった樹の種類の名があげられている。すなわち、第1仏の時はパータリー樹、第2仏の時はプンダリーカ樹、第3仏の時はサーラ樹、・・・第7仏(釈迦)の時はアッサッタ樹が菩提樹となって、その樹のもとで成道したと説く。この大本経という経は「仏陀の永遠反復」という考え方が萌芽のかたちで出てくる経であるが、「諸仏がすべてそれぞれの菩提樹をもっている」という考え方も【81】反復思想の萌芽として認めることができる。この大本経の菩提樹観をもう少し推し進めるならば、それぞれの仏の菩提樹の場としての「不変なる菩提道場」、諸仏にとっての「永遠に同一なる菩提道場」という、場所そのものの永遠性への信仰に進んでゆくであろうことは容易に推測できる。

2.仏伝の仏陀観と仏跡巡礼の思想とのかかわり    
仏陀観の進展にともなって、発達仏伝は仏陀の生涯を宇宙的な観点で描写するのを好んだ。仏伝はコスモロジーに変容する。歴史的仏陀から宇宙的仏陀へと仏陀の姿が変わり、コスモロジー的な仏陀観が定着すると、次に巡礼地の場そのものがコスモロジー的に考えられるようになる。発達仏伝の担い手である詩人(説法師)と仏跡巡礼者は共に仏陀の奇跡伝説の愛好者であったから、仏伝文学と仏跡巡礼は、仏陀の神格化を通して互いに固く結びついた。そのため仏伝の変容は仏蹟地の「意味」をも変容させた。歴史的な釈迦の追憶の場であることを越えて、仏跡地は宇宙的な意味を付与されるようになる。菩提地・初転法輪地など、釈迦の生涯の大きな出来事の場所は、すべての仏陀にも共通する場となり、宇宙的な出来事が起こる「場所の中の場所」となる。仏跡巡礼の背後で「仏陀の永遠回帰の信仰」が大衆部系統の僧や民間の一般在家信者たちの間に熟しつつあり、そのような聖地観を準備したのであろう。このような聖地観の影の立て役者は「法性」dharmataa の思想である。宇宙の法則の顕現である仏陀は宇宙の法則に合致し、仏陀の一挙一動がすべて宇宙の法則であるとすれば、仏陀が人生の決定的な事件に或る土地を選んだことは、仏陀の恣意的な行為ではなく、それは宇宙の法則によってあらかじめ定められていたことである。仏伝が語るように、菩提道場の地を選ぶならば、絶対にその場所でなくてはならないのであり、決してその他のいかなる場所であってはならない。このような思想によって、仏伝においては菩提道場が永遠化され、初転法輪の場も永遠化され、さらに、その延長線上で、他の主要な仏蹟も永遠化されてゆく。こうして菩提道場などの地が永遠化すると、今度は仏蹟には「定」の場と「不定」の場、つまり永遠なる場所と永遠ではない場所の区別があることがアビダルマ論【82】師によって真剣に討議されるようになる。それがアビダルマ文献に記録されている「定」「不定」の議論である。その議論を以下に紹介する。

3.永遠回帰の場をめぐる議論
聖地のもつ宇宙的性質つまり場所の永遠反復性とでもいうべき性質が、アビダルマの時代に論議のテーマとなる。複数ある仏蹟の中で、どの場所が諸仏共通の、永遠なるものであり、どの場所が釈迦仏固有の、一回きりのものかといった、聖地の「質」に関する議論がなされるようになる。聖地に「定」「不定」の区別を試みる議論である。その議論は、阿毘達磨大毘婆沙論卷第百八十三に詳細に記されている。それによれば、「定」の聖地とは、四つあるとされる。菩提樹の場所 Buddha-Gayaa と、初転法輪の場所 Vaaraa#nasii #R#sipatana M#rgadaavaと、仏陀が天上から来下された場所 Saa#mkaa%sya と、大神変を示された場所 %Sraavastii である。それらは過去と未来のすべての仏陀に共通する聖地であるという。この見解を私が理解したなりに説明すれば次のようになろう:「定」の聖地とは、釈迦牟尼が誕生する前からすでに宇宙の法則によって決められていた場所である。釈迦牟尼がある人生の重大な出来事においてその場所にいたのは偶然ではない。それは必然であり、過去のすべての仏陀が同様にそれぞれの人生において同じ出来事を経験する時に、まさしく同じ場所にいたのである。つまりこう言える。永遠反復して地上に繰り返し現れる仏陀が常に同様なる生を地上世界において示現する時、それらの生は重大事件に際して地上の同じ場所をめぐって反復される。その場所は個々の仏陀の選択の自由を超えており、宇宙の法則自体によって永遠に定められている土地なのである。それが「定」の聖地である。一方、「不定」の聖地とは、釈迦仏が自由意志で選んだ場所である。それは歴史的な場であるが、永遠の宇宙的な場とはいえない。次にこの興味深い大毘婆沙論卷第百八十三の議論の冒頭部分を現代語訳してみよう:

問。一切の諸仏にとって転法輪の場所は同一不変であるのか(つまり、Vaaraa#nasiiの鹿の苑と決まっていて永遠に不変であるのか)。もし不変であるなら、『燃燈仏の本事』 の記述をどう解釈するか。そこには「燃燈仏は燃燈城の喝利多羅山において、初めて法輪を【83】転じた」と説かれているではないか。また、もし不変でないなら、ダールミカ・スブゥーティの説いた偈頌をどう解釈するか。そこには「過去の諸仏もこの鹿の苑で初めて法輪を転じたことを想え」と説かれている。或る論師たちが「一切の仏の転法輪の場所は不変である」と主張しているが、もしそうなら、『燃燈仏の本事』 の記述をどう解釈すればよいのか。----- 答。この『燃燈仏の本事』の記述を必ず正しいと見なす必要はない。なぜか。これはスートラでもなく、ヴィナヤでもなく、アビダルマでもない。ただの伝説である。伝説が語るものには、正しいものと正しくないものがある。もしこの伝承を必ず正しいと見なしたいのなら、次のように理解すべきである:過去の燃燈城は今のベナレスVaaraa#nasiiのことであり、過去の喝利多羅山とは現在の鹿の苑のことであると。さて、「一切の仏の転法輪の場所は不変である」と説く者たちの意見に従えば、四つの仏蹟の場所が永遠不変であり、二つの仏蹟の場所が不変ではない。不変なる四つの場所とは、菩提樹の場所と、初転法輪の場所と、仏陀が天上から来下された場所と、大神変を示された場所である。不変でない二つの場所とは、仏が誕生される場所と般涅槃される場所である。(大毘婆沙論はこう述べた後、次の段で、なぜ菩提樹の場所が一切の仏の不変の場所と見なされるか、その経証を示す。さらに、その次の段では、なぜ「天上から来下された場所」が、また次の段では、なぜ「大神変を示された場所」が、一切の仏に共通する不変の場所と見なされるのか、その経証を示している。)

以上のように、四つの仏蹟の場所が不変であり、二つの仏蹟の場所が不変ではない(四処定・二処不定)と説く者たちの意見を大毘婆沙論は紹介した後に、今度は釈迦牟尼仏の初転法輪の場所は一切の仏の不変の場所ではないと説く者たちの意見を紹介する。この議論の詳細は省略するが、この「鹿の苑は不変の場所ではない」と説く者たちの意見に従えば、六つの仏蹟のうち、三つが諸仏に共通する永遠不変のものであり、残る三つが不変のものではない(三処定・三処不定)。
この大毘婆沙論議論から、いくつかのことを確認することができる:
第1点。大毘婆沙論編纂の時代(後3〜4世紀)には主要な(つまり人気あり権威ある)仏蹟は六つであったらしいことがわかる。阿含の大般涅槃経が成立した時代の四大仏蹟から二つ増えたことになる。すなわち仏陀が天上から来下された場所 Saa#mkaa%sya と、大神変を示された場所 %Sraavastii である。仏陀伝説の中で奇跡が強調される場所が次第に重要視されて大巡礼地となっていったわけである。この六つの聖地が互いに自己の権威性を競っていたのであろう。
第2点。仏陀の誕生地と般涅槃地は不変ではない(諸仏に共通するものでは【84】ない)という点で、論師の意見が一致していることが確かめられる。また菩提道場と、仏陀が天上から来下された場所と、大神変を示された場所が諸仏に共通しているとみなすことでは異論がないらしい。
第3点。仏陀の永遠反復の神話を反映している記述をもつ文献が、大衆部のみならず、説一切有部においても伝えられていて、経証として認められていたことがわかる。

4.「定」の四聖地についての法顕の報告   
「定」の四つの聖地については、5世紀初頭にインドを旅行した法顕も報告している。法顕は「あらゆる仏に(共通の)四つの常に定まった場所がある」といい、「一は成道の処、二は転法輪の処、三は説法論議して外道を伏した処、四は三十三天に上って母のために説法して天から下ってきた処である」という。このうち一番目は Buddha-Gayaa の地をさし、二番目は Vaaraa#nasii 近郊の鹿の苑、四番目はSaa#mkaa%syaの地であることが確実であるが、三番目の「説法論議して外道を伏した処」が何処を指すのか、少し曖昧である。仏が説法した場所となれば、%Sraavastii(舎衛城)か Raajag#rha(王舎城)のどちらかを指すと考えられる。しかし法顕の旅行記では特に %Sraavastii の聖地の説明において(註5)、仏が九十六種の外道と論議した場所(「論議処精舎」)を報告しているから、法顕が言う三番目の「説法論議して外道を伏した処」とは、%Sraavastii の地を意味していると解釈するのが最も自然である。玄奘の大唐西域記は、舎利弗が外道を降伏させた旧跡たるストゥーパの存在を報じる文の前と後に、如来が外道を論破した跡があることを報じている。また大乗本生心地観経第一に述べられている八大塔(つまり八大聖地)の4番目として「給孤独園の外道と論議し名声を得た塔」と語られているのは(大正 3, 294b)、疑いなく %Sraavastii の聖地を意味している。従って、法顕が述べる「定」の四つの聖地は、大毘婆沙論卷第百八十三の述べる「定」の四聖地と一致するものである。
法顕は旅行記で「定」の四聖地に行け、生誕地へは行くな、と忠告している。その記録から、5世紀以前に「定」の四聖地(Buddha-Gayaa・Vaaraa#nasii鹿の苑・【85】Saa#mkaa%sya・%Sraavastii)が単なるアビダルマ上の議論ではなく、実際に新しい聖地巡礼の組み合わせとして、古い聖地の組み合わせに取って代わるかたちで、巡礼者に人気ある場所となっていたことが伺える。インドで八大聖地が語られるようになる前の段階において、恐らくこのように「定」の四つの聖地が確立しつつあり、主要巡礼地の数は四つから六つになっていた。四から八へ拡大される契機としての六である。この中間的な段階としての六大聖地を彫刻上で表現したものがナーランダーから出土している(註6)。

5.聖地の「定」「不定」観の漸次的形成
菩提樹の場所と初転法輪の場所に加えて、新興の二聖地たる仏陀が天上から来下された場所と大神変を示された場所も、「定」の聖地であるとなぜ大毘婆沙論中の論者は判断したのか。このような議論で問題になるのは必ず経証である。つまり「定」「不定」の判断は、アビダルマに先行する、権威ある文献である阿含文献や阿含に準ずる文献において議論の根拠となる文が見つけられるかどうかにかかっている。上記の毘婆沙論卷第百八十三の私が現代語訳した箇所の直後に、経証をめぐってのかなり長い議論がある。毘婆沙師が経証として認めるのは有部が伝承する阿含や阿含に準ずる文献であるが、有部の内部でも、このような新しい問題に対して経証となりうるような記述をもつ文献がかなり見つかったらしい。
有部伝承の文献は現代に完全に伝わっていないため、上記の経証として上げられている記述を綿密に検討することは文献学的に興味深いが、紙幅の制約上ここでは取り上げない。なぜなら今の考察において大切なのは、有部ではなく仏教全体の流れの中で、なぜ「定」の聖地のような信仰が出てきたかを歴史的に推測することである。私なりの推測を述べれば、次に述べるような過程を経て、菩提道場の聖地が他の牽引役を務めつつ、「定」の聖地グループが出来てきたのではないかと思われる:
(1)まず菩提道場の地が諸仏共通の聖地として、永劫にわたって同一に反復するものと見なされ、のちの「定」の聖地観の範例となった。過去未来におい【86】ても諸仏の菩提道場の場が同一であると見なす文献は数多い。発達仏伝文献の大多数がその典拠となる。アビダルマ文献としては大毘婆沙論 (27, 916c9) や倶舎論(世間品第53偈に対する世親の自註)などが典拠となる。
(2)次に四大聖地の中で、初転法輪地が菩提道場に続いて「定」の聖地とみなされるようになったらしい。初転法輪の場所が、過去の無数の諸仏においても同一の場所であったことは、仏伝 Lalitavistara に明言される。その第25章で、この Vaaraa#nasii の「仙人堕処」#R#sipatana と名づけられた鹿の苑の、同じ場所において、9万1千コーティの数の過去の諸佛が皆すべて、初めての法輪を転じたことを想いだす、と釈迦牟尼が説く(ed. Lefmann, 402.13-16)。またMahaavastu (ed. Senart, III, 329-330) ではその聖地観は奇跡の形をとる:Buddha-viciir#naa という蓮池で沐浴された後に、仏陀は 「すべての過去仏はどの場所で法輪を転じられたのか」と思念した。彼の立つ場所が(これから起ころうとする初転法輪の事件の重さに耐えきれないで)沈みはじめる。すると鹿の苑に五つの席が出現する。その五つの席は釈尊を含めて賢劫の五仏のために、初転法輪の場所として出現したのであり、第四の席が釈尊のものである。このようにMahaavastuは初転法輪の場所に関して語っている。つまり鹿の苑という場所は過去三仏・現在の釈迦牟尼仏・未来の弥勒仏が共通して初転法輪を行う場であることを明らかにするためにMahaavastuはこのような出来事を語るわけである。大毘婆沙論には「鹿の苑は不変の場所ではない」と説く者たちの意見もあったことが記されているのは注目に値するが、少なくとも現存する上記の仏伝は、初転法輪地に対して「定」の聖地のような見方をとっている。
(3)いっぽう誕生地と涅槃地は「不定」の場所として価値が切り下げられ、実際に巡礼地としてさびれる運命にあった。なぜ古い四大聖地に含まれていたにもかかわらず、誕生地 Lumbinii と般涅槃地 Ku%sinagarii を「定」の聖地とアビダルマ論師たちは判断しなかったのか。仏陀の誕生地が「定」ではないということは、仏伝文学に親しんだ者なら予想できる結論である。なぜなら仏伝の多くは、菩薩が生まれる前に兜率天から地上を見下ろして、自分が生まれる国を選択した話を伝える。つまり菩薩が彼の生まれる場所を任意に選んでいる。こ【87】のように仏伝が語る以上、生まれる場所はすべての仏陀に共通する「定」の聖地ではありえないことになる。また仏陀が亡くなられた場所が「定」かどうかということは、阿含の大般涅槃経が反証となるはずである。大般涅槃経は、Ku%sinagarii(Kusinaaraa)の地が過去の諸仏にとっても般涅槃処であったとは説かない。過去においてはKu%sinagariiは(釈迦牟尼の前世の姿である)大善見王の王都であったと説き、その地が昔の転輪聖王の王都として古い由緒をもつことと、その土地への釈迦牟尼仏の個人的な前世の繋がりが示されるだけである。この記述が妨げとなって、すべての過去仏がKu%sinagariiで般涅槃したという思想を後から付加することが出来なくなったと思われる。また、そもそも生まれるという行為、死ぬという行為は仏陀に特別なものではない。すべての人間に共通のものである。成道するという行為と初転法輪を行うという行為は、仏陀のみに特別の行為である。この行為の性質の違いのために、誕生地と死亡地は永遠反復される場所ではない一方、成道地と初転法輪地は永遠反復される場所と見なされたと考えられる。両者の地の性質を隔てる違いは、仏陀の特別な行為のために用意された場所であるか、そうでないかにかかっている。
(4)さびれ始めた誕生地と涅槃地に代わって、新興の二大聖地が、「定」の聖地として入ってきて、新たな聖地の枠組みを作る。両聖地は西紀前から有名であったが、後2世紀頃から、両聖地の奇跡を並べる見方が出てくる。たとえば後2世紀頃作られたらしいアショーカ王因縁譚(Divyaavadaanaに収録)には「ここでは世尊が大神変を見せました。ここでは世尊が生母に説法するため、三十三天の世界に行って、安居を過ごし、神々に囲まれて降りてきました」という文章があり (ed. Cowell & Neil, p. 394)、Saa#mkaa%syaと%Sraavastiiの二つの聖地の奇跡が同時に並べられている。両者を新しい一組の聖地として重要視する時代は、後2世紀頃にはすでに始まっていたらしい。両聖地をばらばらにではなく、聖地のグループづけの発想で、ペアとして語るようになる時代に、大聖地の「枠組み」に新たな変更が起こりつつあったと考えられる。
なおパーリ『ミリンダ王の問い』の第五部の「頭陀の支分の問い」(ed. Trenckner, pp. 349-350)では、六つの地名が「無数の人や天が真理の観察に達した所」【88】として示されるが、その一番目と五番目に、Saavatthii (=%Sraavastii) とSa+nkassa (=Saa#mkaa%sya) の地名が入り、しかもその地の奇跡にも少しだけ言及している。%Sraavastiiの奇跡については「(%Sraavastiiの)Ga#n#damba樹の下で、双神変が行われたとき、二億の人々が<真理の>観察に達した」と説き、Saa#mkaa%syaの奇跡については、「神々が降下した時、Sa+nkassaの城門における、世界開顕の神変 によって、三億の敬虔なる人々および神々が、<真理の>観察に達した」と説く。この箇所は、『ミリンダ王の問い』の原型の部分(漢訳とパーリの共通部分)ではなく、付加部分であるが、恐らく後2世紀以後のものと見なすのが適当であろう。聖地の聖性の度合いを、「無数の人や天が真理の観察に達した所」という新しい視点から測り直してみる見方がここではっきり出ているのは興味深い。このような新しい視点から聖地の枠組みが組み直される動きが後2世紀には始まっている。
仏陀が亡き母に説法するために昇った三十三天から再び地上に降りられた場所 Saa#mkaa%sya と大神変を示された場所 %Sraavastii が、過去の諸仏においても同一の場所であったという考えは、根本有部のDivyaavadaanaの次の文章 (ed. Cowell & Neil, p. 150) に明示される:

ところで、尊き仏陀たちが、生き、生存し、存在している時、彼らには十の必須の行為があるというのが決まり(常法 dharmataa)である。つまり、尊き仏陀たちは(1) 仏陀が<未来の>仏陀に授記を与えない限り、(2) 衆生に不変の無上の正等菩提の心が生じない限り、(3) 仏陀によって教え導かれるべき者たちがすべて教え導かれない限り、(4) 寿命の四分の三が棄捨 (uts#r#s#ta) されない限り、(5) <戒律を保つため一定の地域を>区画制限 (siimaa-bandha) がなされない限り、(6) 二人の弟子が<弟子の中の>最高者として宣言されない限り、(7) Saa#mkaa%syaの町に神々の集合体<からの仏陀の>降下 (devataavatara#na) が示現されない限り、(8) Anavatapta 大湖のもとで弟子たちと共に、前世のカルマの糸が弁別されない限り、(9) 父母を真理の法に確立させない限り、(10) %Sraavastiiにおいて大神変が示現されない限り、涅槃に入らないのです」。

ここでは、三十三天からのSaa#mkaa%syaへの降下の奇跡と%Sraavastiiにおける大神変との出来事が、すべての如来が世に出現して必ず行う十事の中に入っている。両者の奇跡はすべての如来に共通する行為と見なされているわけである。
この諸仏の必須の十事は、より古い形態では五事であったらしく思える。根【89】本有部毘奈耶雑事巻二十六では諸仏の必須の五事が説かれている。その五事の中に、(第三事として)父と母に真諦を見せしめるための説法、(第四事として)%Sraavastii において大神通を現じること、の二項目が入っている。また増壹阿含の巻第二十八聴法品第三十六の第五経(大正 2, 703b) でも似たようなことが説かれている。その経によれば、すべての如来が世に出現して必ず行う五事があるが、その中の一つとして、父母を教度するという一事がある。父の教度の行為として仏陀が郷里に戻って説法すること(生国 Kapilavastu への帰郷の仏伝挿話)ならびに母の教度の行為として仏陀が三十三天に昇って説法することは諸仏によって反復される行為であると考えられていたことを、五事のこの記述に読みとることが出来る。ここで注意すべきことは、仏陀の母は必ず夭逝し、死して後三十三天に生まれ変わることは宇宙的な法則(常法)であるという教理が先立ってあり、その前提の上ですべての仏陀が母のために三十三天に昇るはずだと考えられていることである。仏陀の生母は出産後七日して亡くなり三十三天に生まれ変わることは、すべての仏陀に共通する常法 (dharmataa) であるという教理は既に阿含経形成の時代に確立している(Mahaapadaanasuttanta 1.22 節;Mahaavadaanasuutra 6c 節)。すべての如来が誕生直後に必ず母を喪うならば、亡くなった母のために三十三天で説法するということもすべての如来に共通するはずだと考えられたらしい。こうして仏伝の出来事が次々に法則的な出来事に変えられた。
上記の根本有部雑事の説く諸仏必須の五事では三十三天での説法と %Sraavastii の大神変との両方が入っているのに、増壹阿含の説く諸仏必須の五事では前者は入っているのに後者の %Sraavastii の大神変が入っていないという事実は、根本有部律の伝承が増壹阿含のそれと比べてやや新しい時代に属することを示すものかもしれず、するとこの相違から、%Sraavastii の聖地としての格上げは Saa#mkaa%sya の聖地としての格上げにやや遅れるのではないかという推測が立てられるかもしれない。
仏陀が大神変を示された場所 %Sraavastii が過去の無数の諸仏においても同一の場所であったことは、Divyaavadaana の次の文章も、その典拠となる:「世尊は【90】こう思われた:『生き物たちを益するために、過去の正等覚者たちは、どの場所で大神変を示現したのであろうか』。(中略)世尊に智見が生じた:『生き物たちを益するために、過去の正等覚者たちは、%Sraavastii において、大神変を示現した』と」 (p. 147) 。仏陀はこのように大神変を示すための諸仏の共通の場所について考えた後に、過去の諸仏と同じ様に大神変を示すため、%Sraavastii に赴くのである。根本有部毘奈耶雑事巻二十六にも同じ内容の文章がある。
毘奈耶雑事第三十八では、根本有部律が編纂された頃(後3〜4世紀)の主な仏蹟地を示唆する記事が有る。それによれば、仏が亡くなられた時、マガダ国王アジャータシャトル王が仏の般涅槃の知らせを聞けば必ず熱血を吐いて死んでしまうであろうため、その救済策として、大迦葉が妙堂殿(の壁)に次のような仏伝画を描かせたが、それは、(1) 兜率天上から下界に五種の観察を行い、(2) 欲界天子が三たび母胎を浄めた後に子象の形で入胎し、(3) 誕生したる後、(4) 城を抜けて出家し、(5) 六年間苦行し、(6) 金剛座に座して菩提樹下で正覚を成じ、(7) その後Vaaraa#nasiiにおいて法輪を転じ、(8) %Sraavastiiにおいて大神通を現じ、(9) Saa#mkaa%syaにおいて三十三天から宝階三道をもって地上に下り、(10) Ku%sinagarii において大涅槃に入る-----このような仏伝の諸場面からなる絵である。ここに仏陀の生涯の十ほどの大事件が列挙されているわけであるが、%Sraavastii の大神通と Saa#mkaa%sya の三十三天からの降下が、列挙された事件の中に入っている。両者はそれほど重要視されるようになっていた。この一連の仏伝画はその当時の聖地巡礼地を思わせる。すなわち、LumbiniiとKapilavastu、前正覚山とBuddha-Gayaa、Vaaraa#nasiiの鹿の苑、%Sraavastii、Saa#mkaa%sya、Ku%sinagarii。つまりこの雑事第三十八の記事が作られた時代には、有名な巡礼地として「定」の四聖地を含む六つほどの聖地の評価が出来上がっていたと思われる。
以上の資料から、Divyaavadaana や根本有部律の成立した後3〜4世紀には、少なくとも根本有部系においては、Saa#mkaa%sya と %Sraavastii が「定」の聖地であるという意見が確立していたことが推測される。
スリランカの仏教徒は常にインド仏蹟に強い関心をもっていた。パーリ上座【91】部の権威的な聖典注釈文献には後5世紀頃の Saa#mkaa%sya と %Sraavastii を「定」の聖地とみなすインドの聖地観が反映されている。『ダンマパダ註』に語られる%Sraavastii の大神変の話では、なぜ %Sraavastii の地で奇跡を行わなければならないかという問いに対し、あらゆる過去の仏が同一の奇跡を行ったゆえに釈迦牟尼もその場所で同じ奇跡を行うのである、と明確に表現されている(註7)。また『ブッダヴァンサ註』と『中部経典註』に、Saa#mkaa%sya への仏陀の三十三天からの降下の話があるが、そこでは、Saa#mkaa%sya の町の入口にある仏蹟は世界の不変の場所 (avijahita#t#thaana#m) であり、すべての仏陀が(三十三天で)アビダルマの説法を行った後に、まさしく同じ地点に天から降下するのであると説明されている(註8)。このように、パーリの注釈文献の作成者たちも、%SraavastiiやSaa#mkaa%sya は過去未来すべての仏陀にとっての聖地である、つまり「定」の聖地であると認識していた。この「定」の聖地観は部派の相違を越えて普及し、スリランカの上座部に知られるまでになっていたのである。

6.結語(まとめとして)
すべての仏陀が地上の特定の場所をめぐって永遠反復的に同じ行為を繰り返すという考え方が、大衆部的な仏伝文学を介して次第に部派を越えて普及していった。その仏陀観の変容は仏跡に対する考えも変容させ、仏跡の場を永遠反復される場とそうでない場に区分する思想となって、いくつかの主要な聖地を格別に宇宙的な場にした。当時の複数の仏跡巡礼地の権威性は、この思想によって様変わりした。仏陀の誕生地と涅槃地は「不定」の聖地として価値が下落し、「定」の聖地の地位を獲得した二つの奇跡の場所にとって代わられた。実際に法顕の時代には阿含の四大聖地から「定」の四大聖地へと巡礼の人気が移っていた。「定」の四聖地に入らない誕生地と涅槃地を加えるなら、当時権威があった聖地は六つあったといえるが、インド仏教徒は四か四の倍数を好んだため、グプタ朝以後は、六大聖地ではなく八大聖地(註9)として、仏跡地の新しい枠づけがなされるに至った。この八大聖地観では、阿含の四大聖地に Saa#mkaa%sya と %Sraavastii との新興の二聖地を加えた六聖地を中核に置くことに大体異論はな【92】く、さらに二つの聖地が好きなように選べるようになった。一般的にはその空いた二聖地にはVai%saaliiとRaajag#rhaを入れるのが好まれた。しかしなぜその二聖地をいれるのか、その理由については諸伝承は足並みを揃えていなかったようである。


1) 拙稿「仏陀の永劫回帰信仰」、印度学宗教学会『論集』17号 (1990), pp. 109-93.
2) E. Waldschmidt (1944, 1948): Die %Uberlieferung vom Lebensende des Buddha, AAWG, Nr. 29 und Nr. 30, Teil II, S. 193, 244.
3) E. Waldschmidt (1951): Das Mahaaparinirvaa#nasuutra, Teil III, S. 390. 「だれでも、<聖地巡礼をして>その途中で、私に対して清らかな<信心の>心をもって死ぬならば、煩悩の残余があったとしても、彼らはすべて天の世界に赴くであろう」。パーリ語本の大般涅槃経にもほぼ同じ内容の文章が見られる:「アーナンダよ、心浄らかで信仰心が厚く、チェーティア(霊地)を巡礼して歩く者は誰もが、死んでこの肉体が滅して後、よき所・天の世界に生まれるであろう」(5章8節)。『大業分別』Mahaakarmavibha+nga 第62節にもこの大般涅槃経の文が引用されている。巡礼地をまわる巡礼者は、カルマ(業)の法則を超越して人を天界に生まれさせる特別な働きを、聖地という特別な場所から与えられており、悪業が残っていたとしても、巡礼の道の途中で死ねば必ず天界に赴くと、そう一般に在家間で信じられていたらしいこと、そして、そのような巡礼の思想は仏教の最初期まで遡るらしいことを、この古い大般涅槃経の文は示している。かなり後の時代に成立したらしい『仏説八大霊塔名号経』(大正 No.1685)でも、八大聖地を供養すれば死後天に生まれると説かれているから、同じ思想がインドでは後代まで一貫して流れていたことがわかる。
4) A. Bareau (1974): Le Parinirvaa#na du Buddha et la naissance de la religion bouddhique, BEFEO, 61 (1974), p. 290.
5)  章巽 (1985):『法顕伝校註』、p. 73.
6) 中村元編著『図説佛教語大辞典』p. 583下段に、このニューデリー国立博物館蔵のナーランダー出土仏伝彫刻(9〜10世紀)の説明がある。
7) Dhammapada-A#t#thakathaa, ed. Norman, III, p. 205); tr. Burlingame (1921), Part 3, pp. 39-40. 
8) Cf. Malalasekera (1937-38): Dictionary of Pali Proper Names, II, p. 974.
9) 八大聖地を説く文献として次のものがある:(a) Har#sa王 の『八大霊塔梵讃』(大正 No. 1684);蔵訳(東北 No. 1168) 。(b) 漢訳『仏説八大霊塔名号経』(大正 No.1685)。(c) 蔵訳『八大地チャイティア讚』(東北 No.1133)。(d) 蔵訳『八大地チャイティア讚』(東北 No.1134)。

【93】


「仏陀が永劫回帰する場所への信仰」の論文執筆後の反省:


執筆後に気づいたことであるが、根本有部雑事、大正 24, 399a に義浄による割註があり、その文章をこの論文中に紹介すべきであった。割註(つまり大正蔵のテキストでは本文に差し挿まれた丸カッコの中にある文章)は次のようなものである:「比、西方に於て親しく如来一代五十余年の居止の処を見るに、其八所あり、一には本生処、二には成道処、三には転法輪処、四には鷲峯山処、五には廣厳城処、六には従天下処、七には祇樹園処、八には双林涅槃処なり。四はこれ定処、余は皆不定なり。総じて頌に摂して曰く、『生と成と法と鷲と、廣と下と祇と林と。虔誠もて一たび想はんに、福は千金に勝らん』と」
ここに挙げられた聖地は、1が Lumbinii、2がBuddha-Gayaa、3がVaaraa#nasii の鹿の苑(M#rgadaava)、4が Raajag#rha、5がVai%saalii、6がSaa#mkaa%sya、7が%Sraavastii、8が Ku%sinagariiである。この八つの聖地の順番は、摂頌(暗唱用の偈)において韻律の法則に合うように並べられたという以上の意味はないようである。この八つの聖地のうち四処が「定処」であると義浄はいう。具体的にその四処とはどれとどれかを指すかは記されていないが、ほぼ確信をもって(わたしの論文中にあるような典拠に基づいて)、四の定処とは、Buddha-Gayaa、Vaaraa#nasii の鹿の苑(M#rgadaava)、Saa#mkaa%sya、%Sraavastii、であると判断してよいと思われる。
義浄が旅行をした7世紀後半のインドでは8つの聖地名がひとつの偈にまとめられて人に唱えられていた。八大聖地の枠組が不動のものとなっていたのであろう。法顕と同じく義浄も、聖地には「定」と「不定」の違いがあることを現地の僧たちから教えられていた。「定」の聖地は四つであることは、法顕も記している。