Maat#rce#taの研究は、今世紀になって、チベット大蔵経の中にある作品から始められ たが、その端緒になったのが、Mahaaraajakanikalekhaのチベット訳である。 題名のKanika大王とは仏教詩人A%svagho#saと親交のあった有名なKani#ska王のことと推 定されるため、F. W. ThomasはMahaaraajakanikalekhaの作者Maat#rce#taと、詩人A%svagho#saとの関係を調べる手がかりを得ようとして、初めにこの作品に注目し、研究した。
Thomas(1903)は<註1>Mahaaraajakanikalekhaのチベット訳テキストとその英訳とを発表したが、そこでMahaaraajakanikalekhaの作者Maat#rce#taを詳しく論じた。ThomasがMaat#rce#taを新しい著作家として紹介するには、まずMaat#rce#taとA%svagho#saの関係を明らかにする必要があった。なぜなら、ターラナータに代表されるチベットの伝承では、両者および、Aarya%suura(聖勇)が同一 視されていたからである。Thomasはまず(1)義浄の南海寄帰内法伝や、南條カタログから知られる中国側の伝承では、Maat#rce#taはA%svagho#saやAarya%suuraとは別個の人物として扱われていること、(2)チベット側の伝承 には混乱があり、Maat#rce#taの一百五十讃のチベット訳のコロフォンではA%svagho#sa (Rta-bya+ns) の作品とするのに、Mi%srakastotra(Maat#rce#taの一百五十讃にDignaagaが 150詩節を加えた作品)のチベット訳のコロフォンでは、作者はA%svagho#saとDignaagaとせず、Maticitra (=Maat#rce#ta) とDignaagaとしており、それは義浄の記述と一致するものであることを指摘し、彼はチベットの Maat#rce#ta = A%svagho#sa = Aarya%suura 同一説を疑問とした。このThomasの論文によってMaat#rce#ta は仏教の歴史上に位置を与えられた詩人になったといってよい。
日本ではThomasより14年遅れる1917年に寺本婉雅が同じようにチベット大蔵経からMahaaraajakanikalekhaを和訳した<註2>。残念なことに寺本はThomasの先の論文を知らなかったばかりか、Maat#rce#taをA%svagho#saとするターラナータの説を疑わず、馬鳴の書簡を新発見したと信じてそれを発表したのであった。寺本は1922年に西蔵語文法を出版したが<註3>、その中でチベット文テキストとともにこの和訳を再録している。
Dietz(1980)の博士論文『インドの仏教書簡文献』は<註4>、チベット大蔵経に残るインドの 仏教徒の書簡文献のすべての内容を紹介した研究であるが、Mahaaraajakanikalekhaにも一節を割いて、手紙の受取人のKani#ska王とは誰であるかを論じ、また作品の内容分析表を作成した。
この作品『カニ(シュ)カ大王への書簡』は題名の示すとおり、Maat#rce#taがKani#ska王にあてた書簡である。85詩節から成る韻文で綴られている。老いと病のために王の 招待を受けても旅に出られないことを謝し、王に教えを示すことの畏れ多いことをわびながら、Maat#rce#taは若き王に施政者としてふさわしい法の行いとはどのようなものかを 述べている。老いたMaat#rce#taが手紙を書いた若いKani#ska王とは、Bailey(1951)が<註5>推測するように、馬鳴を宮廷に呼んだKani#ska一世ではないであろう。Kani#ska王には一世、二世、三世がいたと思われるが、Maat#rce#taが語りかけているのは、恐らくKani#ska 一世の孫の、Kani#ska二世であると推定される。しかしMaat#rce#taと同時代のKani#ska 王についての問題は複雑であり、Kani#ska年代に関する国際会議で、Warder(1968)やF. Wilhelm(1968)が新たにその問題を論じている<註6>。
Mahaaraajakanikalekhaは梵本は未だ発見されておらず、漢訳も存在しない。
Tib.: Toh 4184, 4498, Ota 5411, 5684, N(T)3402, 3675
Maticitra造 Vidyaakaraprabha, Rin-chen mchog訳 Dpal brtsegs 校訂
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