Maat#rce#taの研究はチベット訳から始まり、先にF. W. ThomasがMaat#rce#taのMahaaraajakanikalekhaのチベット文テキストと英訳を発表したことを述べたが、Thomasは1905年に Catu#h%sataka-stotra(四百讃)のチベット文テキストを最初の4章まで英訳とともに発表している<註1>。
一方、中央アジア探険によって各国にもたらされた多くの梵文仏教文献の断片の中に、Maat#rce#taの梵文断片が多数発見された。ここから研究は梵文資料が中心となる。
渡辺海旭(1912)は<註2>ドイツで断片の同定を手伝い、いち早くStein 収集品中の四百讃の断片の存在を報じ、次いでHoernle(1916)編集の、中央アジアの断片研究をまとめた著作『東トルキスタンで発見された仏教文献残簡』は<註3>、渡辺が先に報じた断片を含む、四百讃の3葉の紙の梵文断片の原文転写をあげた。3葉の断片はそれぞれの葉が、(1)第1章1〜11詩節、(2)第6章32〜40詩節と第7章1〜2詩節、(3)第12章6〜15詩節にあたるもので、(1)の葉はSteinがKarashahar近くのKhoraの遺蹟で発見したもの、(2)と(3)の葉は1906年にBa%i近くのJigdalikで発見されてHoernleに送られたもので、どの断片も斜形グプタ文字で書かれている。
さて(3)の断片のコロフォンには、Var#naarha-var#ne buddha-stotre …… naama dvaada%samo'dhyaaya#h samaapta%s ca Catu#h%sataka#m k#rtir aacaarya-bhadanta-Maat#rce#tasya(仏讃『称賛に値する者への称賛』における …(破損)…という第12章おわる。『四百讃』、大徳マートリチェータ師の作なり)と書かれているが、Hoernleは『称賛 に値する者への称賛』Var#nanaarhavar#nana(Var#naarhavar#naという写本の読みを Hoernle は Thomasに倣ってVar#nanaarhavar#nanaとし た)の名は、四百讃の別名とは見ずに、Maat#rce#taの3つの作品の「総称」とした。こ の判断は、Thomasが1903年の論文<註4>で示した、Var#nanaarhavar#nana: bhagavato Buddhasya Stotratraya (称賛に値する者への称賛:世尊仏陀のための讃頌の3つ組)というチベット訳の語を根拠にし、さらに梵文断片では四百讃と一百五十讃の作品の前にはPrasaadapratibhodbhavaという100詩節から成る作品が先行し、合計3つの作品が組になっていたらしい事実も根拠としたものである。これに対しS. Bailey(1948)は<註5>もう一度作品の名称を検討し、Var#nanaarhavar#nanaをVar#naarhavar#naと訂正した上、Thomasがそれを「讃頌の3つ組」の総称としたのはナルタン版の誤写に起因する誤読に基づくことを証明した。このBaileyの指摘によって、Var#naarhavar#naは3つの作品の総称ではなく、四百讃の別名であることが確実となった。さらにPrasaadapratibhodbhavaとは、ThomasのいうようにMaat#rce#taの知られざる100詩節の作品などではなく、一百五十讃(別名Prasaadapratibhaa?)に陳那 Dignaagaが150詩節を加えた作品、Mi%srakastotraのことであると推 測し、そして四百讃、一百五十讃、Mi%srakastotraはそれぞれ Var#naarhavar#na、Prasaadapratibhaa、Prasaadapratibhodbhavaの別名をもっていたと主張した。しかし後にBailey(1951)は<註6>、一百五十讃の別名がPrasaadapratibhaaで、Mi%srakastotraの別名がPrasaadapratibhodbhavaであったとする説を撤回し、一百五十讃の別名はPrasaadapratibhodbhavaであるとした。この別名は一百五十讃の最後の詩節の文句から取られたもので、「信仰に基づいた弁才から作られたもの」という意味である。
さてW. Sieglingは4回にわたるドイツのトルファン探険隊が将来したMaat#rce#taの断 片を整理した。彼の成果の一部は1921年にE. Siegとともに出版したTocharische Sprachresteの中の<註7>、サンクリット・トカラ語両語で記された四百讃と一百五十讃の写本断片の研究となって表れたが、四百讃と一百五十讃の梵文テキストを回復する作業は1946年の突然の死まで続けられていた。ほとんど原稿は出来上がっていたというが、彼の死によってSieglingの行ったローマ字転写は断片写本の写真とともにS. Baileyに委託され、Baileyによって四百讃と一百五十讃の中央アジア写本は発表されることになる。そのうち、四百讃の梵文テキストは1950年に発表された<註8>。全体にわたるテキスト、異読、逐語的な英訳のほか、Thomas(1905)の後を受けて第5章以下のチベット訳テキストも合わせ載せている。基づいた写本はHoernle(1916)の発表した3断片と、Sieg・Siegling(1921)のサンスクリット・トカラ語併用テキスト断片、および亡きSieglingが整理した、少なくも17の写本に由来し、ほぼ全篇に及ぶ、約120ものベルリンの 中央アジア写本断片である。しかし基づく写本が断片であるため、原典の回復には限界があり、多くの欠落部をチベット訳からの還元で埋め合わせ、しかも一部は断念せねばならなかった。また個々の断片写本の記述報告も見合わせられた。こういった点で、このテキストの公刊は暫定的な性格のものである。このBaileyによるテキストを大きく補ったのがフランスのB. Paulyであった。
PaulyはPelliot将来の中央アジア梵本写本を整理し、一連の論文『内陸アジアの梵語断片』に調べた断片の転写を発表していたが、1964年の四百讃に関しての論文は<註9>特に大きな成果となった。彼はPelliotが主に Koutcha付近のDouldour-aqourの遺蹟で発見した 断片中に、四百讃の80以上の断片−−47のグループに分類され、ほぼ全篇に及ぶ−−を見出し、それらの新たな断片を先のBaileyのテキストと照合させることにより、多くの不明の箇所の読みを明らかにした。このPaulyの研究に対し、さらにde Jong(1967/68)は 幾つかの訂正を提案した<註10>。
ベルリンの収集品中のサンスクリット・トカラ語両語で併記されたMaat#rce#ta作品断片は1921年にSiegとSieglingにより発表されたことは先にのべたが、1966年にさらにW. Couvreurによりロンドン・ベルリン・パリの中央アジア収集品の中の、13の断片が発表された<註11>。それらは大部分がサンスクリット・トカラ語両語で併記された断片であり、8つの断片は新しく知られたものである。また最近ではK. T. Schmidt(1980)(1983)が四 百讃の東トカラ語の韻文訳(Sieg・Siegling(1921)の No.243-250にあたる)について梵本との比較研究をした<註12>。
D. Schlingloffは1955年に仏教ストートラの中央アジア断片の研究を出版したが<註13>、 その中で四百讃と一百五十讃の断片の転写は載せられなかったものの、それらのベルリン断片の写本情報を初めて報告した(Nr. 1300〜1376)。それらの写本情報は1965年の『 トルファン出土梵語写本』第1巻でより詳しく報告された<註14>。またSchlingloffは1968 年にMaat#rce#taの作品のベルリン断片写本の写真複製を出版した<註15>。これにより先にD.Sieglingがローマ字転写に用いた個々の断片を写真で確認することができるようになった。
J.-U. HartmannはBailey以降に蓄積された以上の研究によって、四百讃の新しいテキストを作る機が熟したことを知り、ベルリンの断片を再度調査して、四百讃の従来の断片に、さらに28の断片を新資料として加え、またロンドンのHoernleコレクションから同じ く今まで知られなかった39の断片を得て、決定的な校訂テキストを1987年に出版した<註16>。このテキストでは82パーセントまで梵語原文を再現することに成功した。そして各詩節について、個々の写本断片のローマ字転写、修復された梵文テキスト、チョーネ・デルゲ・ナルタン・北京版に基づくチベット訳の校訂テキスト、ドイツ語訳および研究註記を示した。また彼の解題はきわめて充実しており、(1)Maat#rce#taの伝記の資料、( 2)彼に帰された作品と引用の一覧、(3)四百讃校訂の写本資料、(4)写本の筆写および言語の特徴、(5)四百讃の構成内容・韻律・作詩法が論じられ、従来のMaat#rce#ta研究が集大成されている。
四百讃の和訳は、まだない。日本での研究は金倉円照(1956)と本庄良文(1982)のものがある<註17>。
最後に、作品について若干解説する。
四百讃は12のPariccheda(章)に分かれ、386詩節から成り、その中の376詩節が%slokaである。内容は次のとおり:
I. A%sakyastava (讃することのできない讃) 29詩節
II. Muurdhaabhi#seka (潅頂) 75詩節
III. Sarvaj%nataasiddhi (一切智の成就) 22詩節
IV. Balavai%saaradyastava (力と無所畏の讃) 26詩節
V. Vaagvi%suddhi (語の清浄) 29詩節
VI. Avivaadastava (無論争の讃) 40詩節
VII. Brahmaanuvaadastava (梵法との一致の讃) 22詩節
VIII. Upakaarastava (奉仕の讃) 34詩節
IX. Apratikaarastava (報いのない行為の讃) 27詩節
X. %Sariiraikade%sastava (体の部分の讃) 34詩節
XI. Prabhuutastava (広い舌の讃) 33詩節
XII. Bhavodvejaka (生存を戦慄せしめる) 15詩節
チベット訳ではさらに第13章(32詩節)dPe las bstod paが付加されている。12章までの訳がSarvaj%nadevaとdPal brtsegs rak#sitaによってなされてより、約200年後の11世紀に、PadmaakaraとRin chen bza+n poによって新たにこの第13章の部分が 加えられたのである。Hartmann(1987)はMaat#rce#taの真作の小品が紛れ込んだものである可能性があるとして、第13章のチベット訳校訂テキストとそのドイツ語訳を彼の四百讃テキストに付け加えた。
Tib.: Toh 1138<註18>, Ota 2029, N(T)29
Maticitra造;(1〜12章)Sarvaj%nadeva、Dpal brtsegs rak#sita、(13章)Padmaakara、Rin chen bza+n po訳
漢訳なし
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