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 3.%Satapa%ncaa%satka-stotra 一百五十讃
(Prasaadapratibhodbhava 信心による弁才の所産)

 %Satapa%ncaa%satka-stotra(一百五十讃)の欧州における研究は、中央アジアから発見された梵文断片の研究から始まった。

 L+evi(1910)は<註1>敦煌千仏洞からPelliotによってもたらされた7葉の紙の梵文断片を同定したが、その中の半葉の断片には(Pra)×dapratibhoの作品名とM(aa)t#r(ce#ta)の作者名が原文中に書かれてあり、漢訳・チベット訳と照合して、その1断片はMaat#rce#ta の作たる一百五十讃の、第145〜151詩節にあたる部分であることがわかった。

 一方敦煌千仏洞からSteinによってもたらされた梵文断片の中にも、一百五十讃の3葉 の紙の断片があり、Poussin(1911)によって発表された<註2>。それら3葉は、第48〜61、 62〜74、115〜130詩節にあたる。Poussinは先のL+eviの断片も新たに校訂し直した。

 Hoernle(1916) は<註3>Poussinが発表したStein将来の3葉を新たに校訂し直し、さらに渡辺 海旭(1912)がその発見を紹介した中央アジアJigdalig-Ba%i 出土の (Hoernle写本)1葉と 、Khora 出土の(Stein 写本)1葉を発表した。Jigdalig 出土のものは第23〜38詩節にあたり、Khora 出土のものは第146〜150詩節にあたる。

 Hoernle にまとめられた(L+eviの断片を除く)5葉の断片写本の研究により、一百五十讃の全体の約5分の2が知られたことになる。

 さてその後、中央アジア以外の地域から写本が発見された。チベットの僧院に残されたサンスクリット写本を調査していたSaa+nk#rtyaayanaは1936年にサキャ (Sa-skya) 寺 で一百五十讃の完本を発見した。それは5葉の貝葉写本で、長さ21.5インチ、横幅2インチ、コロフォンに書かれた所有者Sunaya%sriiの名から1070年頃のものと推定さ れる。Saa+nk#rtyaayanaはその写本を筆写してインドに帰り、翌1937年にK. P. JayaswalとともにそのテキストをAdhyarddha%satakaという作品名で発表した<註4>。Adhyarddha%sataka(一百五十讃)の題名は貝葉写本のコロフォンにあったもので、%Satapa%ncaa%satkaの語は使われていなかった<註5>。

 S. Bailey(1951)は<註6>Saa+nk#rtyaayanaのテキストが原典批判の点で問題を残すものであったため、再校訂に取りかかり、新しい材料としてトルファン探険隊がもたらしたベルリン・アカデミー所蔵の、少なくも15写本に由来し、ほぼ全篇におよぶ大小約50もの断片梵文写本(これはW. Sieglingによって整理された)を使用して、決定的な一百五十讃の 校訂テキストを出版した。このテキストには中央アジア断片写本の異読が記され、各詩節ごとに漢訳とチベット訳、Nandipriya(あるいはRaamapriya?)の注釈のチベット訳がつけられ、後ろに全体の英訳と注解があげられている。さらに付録として(E. Siegによる)第82〜91詩節の、梵文にトカラ語Bで対訳したSorcuq出土の1断片のテキスト、付録IIとしてDignaagaのMi%sraka-stotraのチベット訳テキスト、付録IIIとしてNandipriya注釈のチベット訳中に含まれる、仏教説話の部分の英訳がつけられている。

 辻直四郎(1951)は<註7>さっそくこの重要な出版を詳しく紹介した。そしてBaileyの示した英訳ならびに注解について、批判を行った。

 Baileyが用いた中央アジア写本の詳しい写本情報は、1965年にE. Waldshmidtらによって出版された『トルファン出土梵語写本』の第1巻の中に載せられた<註8>。またそれらの写本の写真複製はSchlingloff(1968)によって出版された<註9>。

 W. Couvreur(1966)は<註10>サンスクリット・トカラ語両語で記されたMaat#rce#taの中央アジ ア断片を発表したが、そこで一百五十讃の断片も (Nr.1-7) 報告された。

 J.-U. Hartmann(1987)は<註11>ベルリンの四百讃の断片写本を調査する途中で、一百五十讃に 属する15の小断片が(彼とK. Willeによって)新たに確認されたことを報告している。 また彼はロンドンのHoernleコレクションからも一百五十讃の16断片を見出した。

 一百五十讃の翻訳は、上述のBailey(1951)の英訳のほかに、奈良康明(1966)による和訳とR. Gnoli(1983)によるイタリア語訳がある<註12>。

 最後に作品について若干解説する。

 義浄の南海寄帰内法伝によると、五天竺においては、初めて出家するものは皆、五戒十戒を憶えた後、Maat#rce#taの四百讃と一百五十讃を暗唱したという。義浄はナーランダ ー寺でMaat#rce#taの人気を知り、学んで帰って一百五十讃を漢訳した。また西蔵の歴史 家ターラナータやプトンによると、文法家で詩人のCandragomin(5世紀)がナーランダ ー寺にやって来て、これまで学んだことを尋ねられた時、彼が意味深くも答えとして挙げたのは、パーニニの文法とNaamasa+ngiitiと一百五十讃の3つであった。彼は自分の卓越した学力と選択眼を示すために、3書の名をわざと挙げたのである。インドばかりではなくまた西域でも盛んにMaat#rce#taの仏讃が唱されたらしいことは、中央アジア出土の写 本断片の数の多さから知ることができる。

 一百五十讃はDignaaga(陳那)によって増広されて、Mi%sraka-stotraが作られた。こ の増広はsamasyaapuura#naという作詩法によるもので、一百五十讃の各詩節の上に1詩節づつ加えてゆく作り方で作品を増広する。 Mi%sraka-stotraはチベット訳のみが残されている。さらに義浄によれば釈迦提婆 (%Saakyadeva) が、あるいはNandipriya註(チベット訳)での引用によればShaakya blo (%Saakyabuddhi) が、Mi%sraka-stotraの上に更に各1詩節づつを加えて、約450詩節から成るMi%sraka-mi%sraka-stotraを作ったという。しかしこれはチベット訳でも残されていない。

 一百五十讃は%slokaの151詩節と、末尾のva#m%sastha調の2詩節から成り、全部で 13の章(pariccheda)をもつ。

I.  Upodghaata (序章) 9詩節

II.  Hetu-stava (悟りの因の讃) 17詩節

III. Nirupama-stava (無比の讃) 15詩節

IV.  Adbhuta-stava (奇跡の讃) 10詩節

V.  Ruupa-stava (姿の讃) 6詩節

VI.  Karu#naa-stava (慈悲の讃) 9詩節

VII. Vacana-stava (言葉の讃) 15詩節

VIII. %Saasana-stava (教えの讃) 10詩節

IX.  Pra#nidhi-stava (誓願の讃) 10詩節

X.  Maargaavataara-stava (道への導きの讃) 11詩節

XI.  Du#skara-stava (難行の讃) 11詩節

XII. Kau%sala-stava (巧妙の讃) 11詩節

XIII. Aan#r#nya-stava (負い目のなさの讃) 19詩節

Skt.MS.:

Saa+nk#rtyaayana 202 (Adhyarddha%sataka)

Tib.: Toh 1147, Ota 2038, N(T)38

Rta-dbya+ns(馬鳴)造, %Srii%sraddhaakaravarma, %Saakya blo-gros 訳

Ch.: 大正 1680. 一百五十讃仏頌(1巻)  摩咥里制タ 造   唐 義浄 訳

  [國訳・論集部5]

%Satapa%ncaa%satka-stotra-#tiikaa(Nandipriya 註)

Tib.: Toh 1148, Ota 2039, N(T)39

Dga#h-byed s%nan-pa(Nandipriya)造  %Srii%sraddhaakaravarma, %Saakya blo-gros  訳

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