Buddhacaritaの最古の写本を発見し報じたHaraprasaad %Saastriiは、同じ場所でSaundaranandaの写本をも発見していた。すなわち彼は1898年にネパールのDurbar Libraryで梵文写本のカタログを作成していたが、写本中にSaundaranandaの貝葉写本(L)があるのを発見した。貝葉写本Lは6行35葉から成り、12世紀頃の筆写と見られる。%Saastriiは1905年に出版されたDurbar写本カタログにその新しい馬鳴の作品の書名を誌し、1909年には改めてその作品の内容をベンガル・アジア協会誌に報告した<註1>。
このSaundaranandaには漢訳もチベット訳も存在しないが、梵本のコロフォンに「これは聖スヴァルナークシーの子にして、サーケータに住する、比丘・阿闍梨・大徳なるアシュヴァゴーシャ大詩人・大説者の作なり」と書いてあることから、馬鳴の作品と知られる。
発見された貝葉はあまりに白アリに食われたものであったため、%Saastriiは新たにDurbar Libraryに見出した18世紀の73葉から成る紙の写本(P)を補助に用いて校訂を行い、1910年にSaundaranandaのテキストを出版した<註2>。校訂にあたっては貝葉写本Lがベースになったが、Lのみでは欠損があり読めないため、紙写本Pを参照した。写本Pは、%Saastriiによれば貝葉Lのコピーではなく、別の写本の系統を継ぐもので、貝葉Lより良い異読を示す場合があるという。ただしJohnstonは、写本Pが別の写本系統を引くという%Saastriiの見解には賛成せず、貝葉Lの直系のコピーと見なすが、写本Pには貝葉Lで変更された読みより古い読みを伝えている場合があることを認めている。貝葉Lは後代の人の手がもとの字の上に重ね書きすることによって、新しい(間違った)読みに直された箇所があるが、写本Pはその補筆訂正を受ける前にコピーされたらしく、以前の貝葉Lの古い(正しい)読みを保存している場合がある。
%Saastrii本の出版以後、さっそくT. W. Thomas(1911)は<註3>Subhaa#sitaavalii 3380にも見られるSaundarananda第8章35詩節の著者問題を論じた。Baston(1912)は<註4>Saundaranandaの全体の要約と第1章と第2章の仏訳を発表した。その後多くの原典批判研究がつづく。
Buddhacaritaの場合と同じく、Saundaranandaの研究もそのeditio princepsの出版以後、多くの 学者による原典批判を受け、最終的にそれらの成果をまとめてJohnstonが新しい校訂本と翻訳を刊行するという経過をたどった。Johnstonの新しい校訂本は1928年に出たが<註5>、それまでに%Saastrii本に対してなされた原典批判に、Speyer(1914), Poussin(1918), Hultzsch(1918-20), Jacobi(1919), Gawro+nski(1919) (1922) (1928), Gurner(1928)があり<註6>、JohnstonはそのうちPoussin(1918)とGawro+nski(1928)の原典批判は参照できなかったものの、ほとんどの研究成果を取り入れた 。いちおうこのJohnston本は原典批判の締め括りといえよう。またJohnston本は先に%Saastriiが用いたと同じDurbar Libraryの2本の写本(L, P)に基づくことができた。この決定的な校訂本の完成に続いてJohnstonは1932年にその英訳を注解付きで刊行した<註7>。Charpentier(1934)は<註8>この新しいJohnstonの校訂テキストと英訳の第4章までを吟味し ている。
Saundaranandaの写本は%Saastrii発見のものの他に、Weller(1953)によって<註9>中央アジアの1葉( 完全)の紙の梵文写本が報告された。それはBuddhacaritaの断片と同じくSorcuq付近で発見されたもので、表裏に第4章37詩節から第5章6詩節までが書かれている。興味深いことに、この中央アジア本にSaundaranandaでは第4章は44詩節までしかないが(第45詩節は明らかに後人の書き入れである)、Johnston本の第4章は46詩節まであり、そして中央アジア本の第37〜44詩節はJohnston本の第39〜46詩節にあたるものである。とするとJohnston本の第4章は2偈余分にずれており、Saundaranandaに本来はなかった2偈をどこかで含んでいる疑いが出てきた。またネパール本と異なるテキストの読みも見出される点でこの断片は貴重である。
さらに最近、『トルファン出土梵語写本』Sankrithandschriften aus den Turfanfunden の第6巻 (1989)の「補遺と訂正」において、同書の第3巻 (1971) に発表した未確定の断片1葉が実はSaundaranandaの断片であったことが報告された。この断片 (Turfan III, Nr.921) はSorcuq出土の、3つの破片から成る貝葉の1葉で、Saundaranandaの第16章21〜32詩節にあた る。確認者のJ.-U. Hartmannが新たな研究を準備中とのことである。これで中央アジアからは合計2葉見つかったことになる。
また中央アジアからはこのほかトカラ語A(Agni語)で書かれた仏弟子Nandaと妻Sundariiの物語を扱った作品の断片多数が発見され、Sieg & Siegling (1921)によって<註10>報告された。この作品は韻文を交えた散文から成り、インド劇から改作されたものらしい。題名はSaundaranandacaritaと復元される。
Saundaranandaの翻訳はBaston(1912)が<註11>第1、第2章を仏訳した後、B. C. Law(1922)が<註12>全部をベン ガル語訳し、次いでJohnston(1932)の英訳が出た。インドではBuddhacaritaを先にヒンディー語訳したS. Caudhariiは1948年にSaundaranandaもヒンディー語訳し、梵本に付して出版した<註13>。わが国では松涛誠廉が1957年に和訳「端正なる難陀」を発表した。この和訳は後に修正が加えられ、松涛の遺稿(1981)として梵文と対照させた形で本として出版された<註14>。また木村秀雄(1959)は<註15>Saundaranandaの第1章のローマナイズと和訳を発表した。最近ではA. Passi(1985)による伊訳がある<註16>。
Passi(1982)は<註17>伊訳の準備中に気付いたJohnston本1〜7章の修正意見を、発表した。
松涛誠廉(1954)は<註18>Saundarananda第15章と第16章が坐禅三昧経 (大正 No.614) に利用されているのを発見した。坐禅三昧経は羅什によって、カシュミール有部の師たちの著作から禅法に関する部分を集めて編纂されたものである。松涛のこの発見により、Saundaranandaは部分訳であるが漢訳が存在することになった。漢訳と梵本(Johnston)の対照をあげよう:
大正15, 273a13 = Saundarananda15章64
273a27-b2 = 15章66, 67
273b8-12 = 15章9, 8, 11
273b25-c8 = 15章12-21
274a5-20 = 15章31-41
274b3-15 = 15章42-44, 46-49, 45
274b19-c3 = 15章54-62
285c1-286a11 = 16章49-69
松涛と同時にDemieville(1954) も<註19>、坐禅三昧経がSaundarananda第16章の49〜69 詩節を含むことを発見していた。このほか金倉円照(1957)は<註20>Harivarmanの成実論 (satya%siddhi%saastra, 大正 No.1646) の所属部派と馬鳴の関係を論じた際、Saundarananda第16章14〜1 5詩節が成実論の終わり (大正32, 372a15-16) に「馬鳴菩薩説偈」として引用されているのを指摘した。
ほかにSaundaranandaの研究としては、Hultzsche(1919)やGurner(1927)などによる、古典カーヴ ィアやラーマーヤナなどの他のインド文献との関係を指摘した研究や、インドや日本の諸学者による修辞法や思想研究、Sen(1930)やSalomon(1983)の言語的な研究、Schligloff(1975)によるアジャンター遺蹟のSaundaranandaの描写 (cave 16) の美術的な研究などがある<註21>。
Skt.MSS.:
Durbar<1905> p.74 = Durbar p.98 = BSP pra1585(3-196) = NGMPP-Card A25/3 [→L];
%Saastrii 1= BSP t#r347(3-195) = NGMPP-Card A399/2 [→P] ;
NGMPP-Card E273/12 [111 fols.];
Turfan I, Nr.515, Turfan III, Nr.921
Skt. MS. of a Part:
Saundarananda-mahaakaavye aaj%naavyaakara#na : Takaoka CA7-1
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