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 Subhaa#sitaratnakara#n#dakakathaa

 Subhaa#sitaratnakara#n#dakakathaa[SRKK](名句の宝筺物語)の現存するすべ ての写本はHahn(1982)の研究によれば<註1>、ネパ−ルにあったらしい1本の原写本に遡る。SRKKはネパ−ルの1系統の写本だけによって、完全な形が現代まで伝えられてきたわけである。

 SRKKを研究対象として取り上げたのはSilvain L+evi(1899)が<註2>初めてであった。彼は、SRKKの1写本を調べて、その作品がDvaavi#m%saty-avadaana(22アヴァダーナ)の各章の終わりで物語のしめくくりに用いられている詩節の集成であること、またコロフォンを見るとAacaarya %Suura作となっていることを指摘した。L+eviはこれだけを見て取って、それ以上の研究に深入りしなかった。またその後L+eviの発見を引き継ぐ者も なく、この作品は久しく忘れられていた。 インドのA. C. Banerjeeは、ネパ−ルの Durbal LibraryにあったSRKKの完全な1写本 (Ba) の複写を入手し、1954年に内容を報告した<註3>。全体は韻文から成り、コロフォンを見るとAarya%suuraの著作と知られる。しかし中身を見ると、在家の寄進を促すために説法用に僧侶が用いた作品らしく、信者が布施等によって功徳を積むことを勧めた教訓話である。BanerjeeはJaatakamaalaaを作ったAarya%suuraと作者が同一人物であることを疑いながら、1959年にその梵本テキストを初めて、Buddhist Sanskrit Text中のJaatakamaalaaの巻に発表した <註4>。 その校訂においては、誤写が多い1本きりの写本を補うため、チベット訳が参照され た。 

 V. V. Mirashi(1961)は<註5>、グプタ歴248年と269年の日付があるValabhiiの銅板の謙譲証書2枚に、SRKKの第6詩節を発見し、SRKKの成立が西暦550年以前に遡りうること、従ってSRKKの著者はAarya%suuraである可能性が大であることが判明したとした。しかしMirashiの発見については、de Jong(1976)のいうように<註6>、6世紀に一般に膾炙していた詩節が、SRKKに使われたにすぎないと判断される。

 Zimmermann(1975)は<註7>SRKKの本格的な原典批判を企てた。彼はDurbal Libraryの1写本の報告たるBanerjee本テキストのほか、新たにSRKKのもう1本の写本(R)を入手し、さらにSRKKとDvaavi#m%saty-avadaanaの間の関係を L+evi(1899)の75年前の指摘から確認した結果、SRKKの全詩節の半分以上がDvaavi#m%saty-avadaanaに借用されていることが判明したため、SRKKの校訂にDvaavi#m%saty-avadaanaの2本の写本(Pa, Ca)をも用いることにし、チベット訳との厳密な対照比較の上、新しいサンスクリット校訂本を作った。チベット文は北京・ナルタン・デルゲ・チョーネ版の4版の異同を調べて校訂され、また初めてのSRKKの翻訳が、梵本とチベット訳の両方に対して行なわれた。

 Zimmermannは、SRKKが次のような段階を経て成立したと見る。SRKKは全27章から成るが、第22章の後にSa#mgraha%sroka(摂頌)があり、22の章の名が記憶しやすいようにまとめられている。この後に、全体から見てひどく不釣り合いな、戒波羅蜜から般若波羅蜜までの五波羅蜜を説く5つの章があり、これは22章までの部分を施波羅蜜にあたるとみて、続く五波羅蜜を付加したのであると推測できる。こうして1〜22章は23〜27章と成立上、区分される。Zimmermannはさらに、1〜4章と5〜22章の部分の間にも、内容的にみて断層があり、1〜4章の部分がもっとも原初的な部分であるとする。

 さて彼は4章までの部分をUr-SRKKと名付けたが、その部分の中の4つの詩節(3章第17〜20詩節)は、%SaantidevaのBodhicaryaavataara4章第17・23・21・ 20詩節と一致することを発見した。またSRKK全体をみると、11の詩節がBodhicaryaavataaraと共通している。また今のべた4つの詩節の中で、half-verseが(第20詩節 cd paada)、さらにMaat#rce#ta の %Satapa%ncaa%satkaの第5詩節cd paadaと一致する。SRKKの核の部分におけるこれらの借用関係はしかし、どちらがどちらを借りたのか決められず、成立年代を決定するには至らなかった。だがZimmermannは原形の成立時期をできるだけ遡らせて、Aarya%suuraの年代にまでもってゆきたかったように見える。彼はUr-SRKKの作者がAarya%suuraである可能性を否定しない。

 de Jong(1976)は<註8>Zimmermannの書を詳しく書評し、上にのべた %Satapa%ncaa%satkaの第5詩節cd paadaとのSRKKの一致は、借用によるものではなく、そのhalf-verseが極めて慣用的 なものであったことを示すこと、またSRKKの成立の下限を示すチベット訳の訳出年代は11世紀中頃までと訂正されるべきであること、ZimmermannはV. V. Mirashi(1961)の発見を見落としているが、しかしMirashiの主張にも賛同しかねること、等を意見した。ま た校訂テキストのいくつかの新しい読みの提案もなされた。

 SRKKの作者と成立年代を決定し、また最終的な校訂本を作ったのがM. Hahn(1982)である<註9>。まず作者であるが、Hahnは6本のSRKKの写本(R, L1, L2, T, N1, N2 = Ba)を調べて、1本の例外 (L2) を除く全部の写本がAarya%suuraではなく、Aacaarya%suuraの読みを支持することを証し、Aacaarya%suuraという人物がターラナータの仏教史に、パーラ王朝時代のカシュミール人として登場してくることを指摘する。この人物は10世紀に生きたゴーパーラ2世とかかわりがあったと思われる。SRKKがこのAacaarya%suuraによって書かれたとすると、成立年代は従って10世紀ということになる。Jetaari (Guhyajetaari) は10世紀か ら11世紀の変わり目の頃にSRKKの65と67詩節を引用し、さらにSRKKのチベット訳は11世紀に%Saakya #hodによってなされているから、成立から翻訳まで最大限1世紀の間しかなかったことになる。するとそれほど短い期間に、Zimmermannの主張するような3段階の成立があったと考えるのは無理である。特に1〜4章(Ur-SRKK)と5〜22章を分ける必要はなく、ひとりの作者つまりAacaarya%suura によって書かれたとみてさしつかえない。またBodhicaryaavataara等との共通詩節については、SRKKはKaavya的な部分の作成において単に慣用の決まり文句を利用しているだけであり、本物の詩人たる独自性はないため、Zimmermannの指摘した13の並行詩節は、SRKKの手本ではありえても、SRKKから借用されたことはありえない、とHahnは問題を片付けた。こうして著者問題は10世紀のAacaarya%suuraと見做すことで一応解決する。しかし、もし仮にSRKKの作者がAacaarya%suuraでないとすると、作風からGopadattaである可能性も考えられないこともない。

 さて先にZimmermannはDvaavi#m%saty-avadaanaの中にSRKKの借用を見付けて校訂に利用したが、HahnはそのほかMahajjaatakamaalaaと Sarvaj%namitraavadaanaの中にも同 じようにSRKKの借用があることを報告した。そしてこれらの文献の内部で伝わったSRKKの読みを「副伝承」と呼び、2次的な資料として扱った。Hahnがもう一度SRKKの校訂をやり直したわけは、Zimmermannの見られなかった新たなSRKKの写本を5本(L1, L2, T, N1, N2)入手しえたことにより、「副伝承」に頼らなくても校訂が可能になり、ZimmermannがSRKK写本内部の伝承と「副伝承」を校訂に際して折衷的に用いたのは方法的に間違いであったため、SRKK写本の伝承を優先し「副伝承」から得られた異読はあくまで参照に留めるという原則を立てて、校訂をやり直す必要を感じたためである。Hahnの校訂はZimmermannのテキストに約50の修正をもたらした。(ここでHahnによって発見されたMahajjaatakamaalaaにおけるSRKKの借用は、Mahajjaatakamaalaa研究史の箇所でのべることにする。)

 以上より、チベット文校訂と独訳の功績はZimmermannに、最終的な梵文校訂の功績はHahnに帰せられる。

 研究がひととおり見渡し得たので、次にSRKKの作品の内容を紹介する。

 SRKKは27章に分かれ、191詩節から成る。辻直四郎(1973)が「内容も平凡で説教用の詞歌集に過ぎ」ない、とのべている様に<註10>、SRKKの文学作品としての評価は低い。SRKKは22章までの本来の姿としては、在家信者が僧に施すべきであるところの物品のリストを、各章にあげている説教集であった。 そのことは特に7章以下の章名から読み取れるであろう。初めの3章は導 入部分であり、人と生まれた間に功徳ある行いをするように、仏教を信仰するように勧める。4章から作品の主要部が始まる。4章および5章では施しあるいは功徳ある行いの果報が一般的にのべられる。7章から21章ではいよいよ施し物を具体的に個々に数えあげており、そのつどのすばらしい果報を教える。雑多な内容の、しめくくりの22章で以上の福徳の教えがまとめられている。

 22章までの本来の作品の姿があまりに布施の請求の性格を露骨に出していたため、それを教義によって打ち消そうとして、22章直後のSa+ngha%srokaのあと、戒波羅蜜から般若波羅蜜までの5つの章を付け加えたらしい。このことによって22章までの内容は施波羅蜜を説いたにすぎなくなる。この不自然な付加は作者自身によってなされた可能性もある。作品はAacaarya%suuraによって書かれた後、翻訳されるまでの1世紀以内に、現在の27章の形に成ってなくてはならないことはHahn(1982) が証明したとおりである。

 1. Pu#nyaprotsaahanakathaa 福徳への鼓舞

 2. Dharma%srava#naprotsaahanakathaa 聞法への鼓舞

 3. Durlabhamaanu#syakathaa 人身の得難さの話

 4. Daanakathaa 布施の話

 5. Pu#nyakathaa 福徳の話

 6. Bimbakathaa 仏像の話

 7. Snaanakathaa 沐浴の話

 8. Ku+nkumaadikathaa サフラン花等の話

 9. Chattrakathaa 日傘の話

 10. Dhaatvaaropa#na 聖遺骨の納置

 11. Ma#n#dalakathaa マンダラの話

 12. Bhojanakathaa 食物の話

 13. Paanakathaa 飲物の話

 14. Vastrakathaa 衣服の話

 15. Pu#spaadikathaa 花等の話

 16. Pra#naamakathaa 礼拝の話

 17. Ujjvaalikaadaanakathaa 燃料の布施の話

 18. Pradiipakathaa 灯明の話

 19. Vihaarakathaa 寺院の話

 20. %Sayanaasanakathaa ベットと椅子の話

 21. K#setrakathaa 福田の話

 22. Vicitrakathaa さまざまの話

    Sa#ngraha%slokaa#h (まとめの偈)

 23. %Siilapaaramitaakathaa 戒波羅蜜の話

 24. K#saantipaaramitaakathaa 忍波羅蜜の話

 25. Viiryapaaramitaakathaa 精進波羅蜜の話

 26. Dhyaanapaaramitaakathaa 禅定波羅蜜の話

 27. Praj%naapaaramitaakathaa 般若波羅蜜の話

 

Tib.: Toh 4511 = 4168, Ota 5424 = 5668, N(T)3415 = 3659

  Dpa#h-bo (%Suura) 造  Rudra, %Saakya #hod 訳

Skt.MSS.:

Cowell・Eggeling 26 [→R]; Matsunami 480 [→T]; IASWR MBB-II-169; Bir 241; Lib.SOAS 216941 [→L1], 211662 [→L2]; NGMPP A125/12 (= pa7)[→N1], A399/19 [→N2 = Ba];Takaoka CH376; BSP t#r927(2-80), pra1123(2-81); Moriguchi 574

上記Skt.MSS.の情報はHahn(1982) p.325-327を参照。

Ms. of Part:

Pu#nyaprotsaahana [Ch. 1]: Dogra 77, 78

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