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 1.Aarya%suura のJaatakamaalaa

 Aarya%suura の作ったJaatakamaalaa(本生話の花鬘)は、一般にjaatakamaalaaの代名詞と見做されるほど有名である。Aarya%suura のJaatakamaalaaは漢訳とチベット訳を備え、またその注釈書として、チベット大蔵経テンギュル部中に、DharmakiirtiによるJaatakamaalaa#tiikaa(東北 No.4151)と、Viirya%si#mhaによるJaatakamaalaapa%njikaaという注釈書(東北 No.4460) があり、蔵外文献にも多くのチベットで作られたAarya%suuraのJaatakamaalaaの注釈書がある(東北 No.5982〜5984, 6584)。このことからもAarya%suuraのJaatakamaalaaの人気がわかろう。注釈書は梵語写本としても残っており、P. Khoroche(1985), R. Basu (1986)によって報告された<註1>。

 作者の Aarya%suuraについては、P. Khoroche(1989)によれば<註2>、梵語で残る注釈書 Jaatakamaalaa#tiikaaに興味深い記述がある。Aarya%suuraはDeccanの1王の息子として生まれ、王座を放棄して出家し、仏教僧になった。そして処々を放浪しながら、作品をtamaala 樹の葉に尖筆で書いていったという。このJaatakamaalaa#tiikaaは14世紀の成立と推定されている。一方、1400年頃成立したセイロンの仏教僧団の史書 Nikaayasa+ngrahavaには、5世紀以後のセイロン在住の学者の名が列挙されているが、その中に在家者の筆 頭として、%Suurapaadaの名があげられているという。Aarya%suuraはセイロン人であったことになる。

 Aarya%suuraの生存年代は4世紀以前であろう。アジャンター第2窟のK#saantivaadijaatakaの壁画には、それに対応するJaatakamaalaaのK#saanti-j. 第4, 15, 19, 56, 57詩節 が書かれており、Maitriibalaの壁画には、対応するMaitriibala-j. 第44詩節が書かれている。L%uders(1902)は<註3>その文字を6世紀のものと推定した。Alsdolf(1961)は<註4>Jaatakamaalaa第6章 %Sa%saを検討した際、Avadaana%sataka(第37話 %Sa%sa-avadaana)がJaatakamaalaaの1詩節(v. 29)を利用しているのを発見した。Jaatakamaalaaはパーリのjaatakaを下敷きにして作られたものであることは確実なため、Avadaana%satakaの側がJaatakamaalaaの詩節を借用したとしか考えられない。jaataka→Jaatakamaalaa→Avadaana%satakaという成立順が判明するが、するとJaatakamaalaaの成立年代はAvadaana%satakaの成立年代1〜2世紀より早いということになる。このあまりに早すぎる年代に対してはやや疑いが残る。この説を留保したまま、別に年代決定の証拠を探したHahnは<註5>、遅くとも5世紀初めには書かれていたHaribha#t#taのJaatakamaalaaの序の詩節に、Aarya%suuraの名前が出てくるのを指摘し、下限を4世紀まで繰り上げた。

 なお、434年に漢訳された大勇菩薩撰、分別業報略経(大正 No.723) は従来Aarya%suuraの作と見做され、生存年代の論拠に使われてきたが、Lin Li-Kouang(1949)によって<註6>Aarya%suura作が疑問視された。漢訳の菩薩本生鬘論 (大正 No.160) はベースとしてはAarya%suuraのJaatakamaalaaが使われているが、11世紀宋朝になされた訳である。漢訳資料にJaatakamaalaaの名が出 てくるのは、7世紀の義浄の南海寄帰内法伝が始めてである。

 Aarya%suuraのJaatakamaalaaの研究は、ネパールのカトウマンドウにおけるB. H. Hodgsonの写本の収 集により始められた。Hodgsonは知り得た経典のリストを、1828年にロンドンとカル カッタに書き送ったが、その中にAarya%suuraのJaatakamaalaaが入っている。彼によって収集された381束の仏教経典の写本は後にパリ、カルカッタ、ロンドンに送られた。

 Fausb&oll(1861)は<註7>5話のジャータカのパーリ語テキストを出版したが、付録として、Jaatakamaalaa第6話 %Sa%saのテキストを付けた。Fausb&ollの基づいたJaatakamaalaa写本は、HodgsonがパリのBurnoufに1837年に送った写本に含まれていた、2本のJaatakamaalaa写本である。(これは現在Biblioth#eque Nationaleに所蔵されるFilliozat No.44と45-46の2写本にあたる。No.45-46の写本は後にKernによってP写本と名付けられた。)

 L. Feer(1875)は<註8>総合的なパーリ・ジャータカの研究を、Fausb&ollの7巻本テキストの 出版に先駆けて、始めて発表したが、その中でCariyaapi#takaとAarya%suuraのJaatakamaalaaとがよく対応することを、対照表をあげて指摘した。Feerの用いたのはパリの2写本である。

 Zachariae(1878)は<註9>シヴァダーサ本『屍鬼二十五話』の第16話 Unmaadinii-kathaanakaの研究の付録として、Jaatakamaalaa第13話 Unmaadayantiiのテキストを載せた。これはD. Wrightが1875年にネパールからケンブリッジに送った2本のJaatakamaalaaの写本に基づいている。( この2写本はKernによってA, B写本と名付けられたが、それぞれBendall Add.1328とAdd.1415にあたる。)

 R. Mitra(1882)とd'Oldenburg-Wenzel(1893)は<註10>それぞれJaatakamaalaaの各章の物語を要約して、内容を紹介した。   

 さてH. Kern(1891)は<註11>パリの1写本(P)とケンブリッジの2写本(A, B)によって、Jaatakamaalaa全文のテキストを校訂して出版した。ハーバード東洋学叢書の第1巻になったこのeditio princeps は、用いた写本の少なさに弱みがあるものの、現在に至るまでなおJaatakamaalaaの 最良のテキストの地位を保っている。

 Kernの用いた3写本は、すべて同系統で、ネパールの知られざる1写本に由来している。3写本の誤りや欠落箇所が一致するのはそのためである。しかしこれらの写本は、後から別系統の写本によって異読を書き加え、訂正された跡をもつ。またP写本のみには、Kaccapa-jaatakaが第17章として挿入されている。Kaccapa-jaatakaは仏教梵語の強い特徴をもち、明らかに他とは由来が異なる部分であるため、Kernは本文から切り離し、付録としてテキストの巻末に載せた。このKaccapa-jaatakaの部分はD' Oldenburg(1893)によってMahaavastuの一部 (II.244 ff.) と同定され、湯山明(1983)の<註12>Kaccapa-j. 研究においてText Aとして校訂された。

 Kernの出版したテキストはただちにJ. S. Speyerによって英訳され、1893〜4年にオランダの雑誌に発表された後<註13>、1冊にまとめた全訳が1895年に東方聖典叢書の第1巻として出版された<註14>。

 Speyerの翻訳はKern本の多くの訂正を含むものであったが、より詳細な原典批判はGawro+nski(1919)によって行なわれた<註15>。Gawro+nskiはKern本テキストに30箇所以上の訂正を提案した。

 Kern本テキストはその後、Aanandamaitreya(1950)がコロンボから出版したテキスト<註16>、Chaudarii(1952, 1971)のヒンディー語対照テキスト<註17>、ならびにVaidya(1959)の仏教梵語シ リーズのテキストの出版<註18>において、元本として用いられたが、若干の訂正が加えられている。またMishra(1977)のヒンディー語によるJaatakamaalaaの研究書にも<註19>、第3付録として全部のテキストが付けられている。

 またKern本テキストの翻訳は、これまでBarannikov・Volkova(1962)のロシア語訳<註20>、Gnoli(1964)のイタリア語訳<註21>、Terrada(1980)の第19章の独訳<註22>などが、英訳のほかに出されており、日本では関稔(1972)の第16章<註23>、辻直四郎(1975)の第6章だけの和訳と<註24>、干潟龍祥・高原信一(1990)の全訳<註25>、杉浦義朗(1990)の全訳<註26>がある。      

 なおBarannikov・Volkova(1962)のロシア語訳とGnoli(1964)のイタリア語訳は、それぞ れ一部がSyrkin(1964)のロシア語選文集<註27>とGnoli(1983)のイタリア語選文集<註28>にも収められ た。

 P. Khoroche(1987)は<註29>、Kern本テキストに代わる新しい校訂テキストを作るために、その準備となる古写本研究を行なった。Kernの用いた3写本に代表される紙の写本グループとは別に、貝葉に書かれた古い写本のグループが存在する。後者に属する写本は前者の写本よりも筆写が数世紀古く、書き誤りがほとんどない。Khorocheはそれら貝葉写本から得られた異読を発表した。  Khorocheが研究した古貝葉写本は、東大No.136写本(T)と、カルカッタ・アジア協会写本

G 9980の後半の貝葉部分(Cb)、さらにネパール・Durbal文庫 III.359.I 写本(N)の3本である。Tは12世紀の筆写、CbとNは同じ写本の部分が泣き別れたものであるが、11世紀の筆写と推定される。TはCbとNよりも後代の写本グループの伝える伝承と異なっているという。これらの古写本の伝える異読は、Kern本テキストに原典批判を加える上で極めて重要である。

 次いでKhoroche(1989)は<註30>、Speyerの英訳に代わる新しい英訳を出版した。この翻訳には上の貝葉古写本の研究の成果に基づき、なされたものである。

 Jaatakamaalaaの原典研究は以上のように、専らネパール写本によってなされてきたが、ネパール 以外に中央アジアからJaatakamaalaaの断片写本が発見されている。それらはドイツのトウルファン探険隊がベルリンに持ち帰ったもので、全部で17断片ある。そのうち14断片(i 〜 xiv)はle Coqが1905年に第2次探険においてToyoq付近で発見したもの、3断片( A, B, C)はGr%unwedelが1906年に第3次探険においてMurtuq付近で発見したものである。これらの研究はWeller(1955)によって行なわれた<註31>。

 中央アジアからはこのほかJaatakamaalaa梵本によく一致する、東方トカラ語訳の断片がSorcuq から見つかり、Sieg & Siegling(1921)によって発表されたが<註32>、その中の断片Nr.70 はJaatakamaalaaの第9章Vi%svaantara-j.、断片Nr.59と85は 第13章Unmaadayantii-j. の一部にあたる。これらの 3断片はSieg(1952)に独訳された<註33>。またJaatakamaalaaとよく一致するウイグル語で書かれた断片も発見されており、M%uller(1931)に研究された<註34>。

 次に写本研究と翻訳以外になされた個別的な研究を見てゆこう。

 Jaatakamaalaaには漢訳として菩薩本生鬘論(大正 No.160)があるが、梵本と大きく違っているため、学者の注意を引いた。初めに研究したのはIvanovski(1893)で<註35>、その論文はDuchesneによ って仏訳された。Ivanovskiは16巻から成る菩薩本生鬘論を巻一〜巻四までと、巻五〜 巻十六までの2部分に分け、前の部分はすべてがジャータカであるのに、後の部分は論(注釈)であると見て、前の部分つまり巻四までの部分がもつ14話のジャータカの内容を要約して紹介した。梵本との大きな違いについて、Ivanovskiは漢訳がなされた時代(11世紀)にはまだテキストは固まっておらず、地域に応じて違った形をとる流動的なものであったのであろうと推定した。これに対してBrough(1964)は<註36>、漢訳と梵本の大きな違いはすべて漢訳者の出鱈目に起因することを証明した。Broughによれば、初めの4巻と後の12巻はそれぞれ別の訳者が訳したものである。初めの4巻の訳者は梵語が読めなかったために、原本の物語の題名から、それに類似する物語を既存の漢訳仏典に探し、抜粋を集めて訳を作り上げた。残る12巻をまかされた次の訳者は、わずかにわかる梵文の単語から、想像力によって物語を創作した。つまり漢訳者たる紹徳・慧詢は力をあわせて偽訳をでっちあげたわけである。Broughのこの画期的な論文は、水野弘元(1966)によって日本に紹介された<註37>。

 Aarya%suura Jaatakamaalaaのチベット訳Skyes-pa#hi rabs-kyi rgyudは1987年にT. Rajapatiranaによって校訂が完了された。

 Aarya%suura Jaatakamaalaaの梵文注釈書Jaatakamaalaa#tiikaaは、Jaatakamaalaaの初めの15話までを扱ったものであるが、その写本の内容はKhoroche(1985)とR. Basu(1986)によって報告された<註38>。この注釈書は特に文法に関心を寄せている。Basuは博士論文(1986)の中でJaatakamaalaa#tiikaaの校訂を行なった。彼女は、チベット訳でのみ残る注釈書Jaatakamaalaapa%njikaaの校訂も行なう予定であるという。

 アジャンター遺蹟にはJaatakamaalaaにもとづくフレスコ壁画がある。それらはSchligloff(1971) 〜(1987)の一連の論文によって研究され、Schlingloff(1987)の『アジャンター壁画研究』に集大成された<註39>。壁画に残るJaatakamaalaaの刻文についてはL%uders(1902)に初めて報じられた<註40>。

 またジャワのボロブドウル大塔にはJaatakamaalaaにもとづく壮大なレリーフが第一回廊見返り上段に135枚あり、S. Oldenburg(1897)が初めてJaatakamaalaaと同定し<註41>、Krom(1927)によって詳しい研究がなされた<註42>。

 Jaatakamaalaaはこのほかチベットのタンカにも描かれた。Bryner(1956)は<註43>アメリカのSt.Louis市 美術館にある12枚のJaatakamaalaaを描いたタンカを報告した。

 JaatakamaalaaとパーリのJaatakaとの対照は初めにKern(1891)とd'Oldenburg-Wenzel(1893)によってまとめられた<註44>。Speyer(1895)は<註45>さらに詳しく、パーリ JaatakaとJaatakamaalaaの詩節の対照関係 を明らかにした。このことからAarya%suuraはJaatakamaalaaの作成にあたってソースとして大部分がパーリJaatakaに基づき、詩節を(かなり変えつつ)借用したことが判明した。

 次にJaatakamaalaaの34の章名をあげる。章名のわきのカッコにあげられたJ.の番号は、Jaatakamaalaaのソースになったと思われるパーリ Jaataka(Fausb&oll版)の番号である。

                                           

1. vyaaghrii 牝虎         

2. %Sibi シビ王  (J. 499)

3. Kulmaa#sapi#n#dii 一塊の粗末なる飯の供養  (J. 415)      

4. %Sre#s#tin 長者 (J. 40)          

5. Avi#sahya%sre#s#tin アヴィシャヒヤ長者  (J. 340)              6. %Sa%sa  兎  (J. 316)         

7. Agastya アガスティヤ婆羅門  (J. 480)

8. Maitriibala  マイトリーバラ王            

9. Vi%sva#mtara ヴィシュヴァンタラ太子  (cf. J. 547)

10. Yaj%na  犠牲  (cf. J. 50)           

11. %Sakra  帝釈天  (cf. 31)    

12. Braahma#na 婆羅門  (J. 305) 

13. Unmaadayantii  男を狂気ならしめる女  (J. 527)

14. Supaaraga スパーラガ船頭  (J. 463) 

15. Matsya  魚  (J. 75)    

16. Vartakaapotaka  幼いうずら (J. 35)  

17. Kumbha 瓶  (J. 512)  

18. Aputra 子なき男    

19. Bisa  蓮根   (J. 488)   

20. %Sre#s#tin  長者   (J. 171)    

21. Cu#d#dabodhi  小ボーディ婆羅門  (J. 443)   

22. Ha#msa  白鳥   (J. 534 )   

23. Mahaabodhi  大ボーディ婆羅門   (J. 528)   

24. Mahaakapi  大猿   (J. 516)   

25. %Sarabha   野鹿    (cf. J. 483)   

26. Ruru    ルル鹿王   (J. 482)  

27. Mahaakapi  大猿   (J. 407)

28. K#saanti   忍辱仙人  (J. 313)  

29. Brahman   梵天    (cf. J. 544)  

30. Hasti    象     

31. Sutasoma  スタソーマ王  (J. 537)

32. Ayog#rha   鉄の家の太子  (J. 510)  

33. Mahi#sa   水牛    (J. 278)

34. %Satapattra  きつつき  (J. 308)

 Jaatakamaalaaに含まれる物語は、説話の系統としては(全部ではなく)大部分がパーリJaatakaの伝承によると見てよいが、Jaatakaの散文部分を形成する注釈書は、Aarya%suuraより後の成立であるし、韻文の本体もまた、Aarya%suuraの用いた伝承と現在のものとは細部が違っていた可能性がある。説話の伝承の研究の上ではAarya%suuraのJaatakamaalaaもPaali Jaatakaと一緒に検討しなくてはならない所以である。

  Jaatakamaalaaの韻文とパーリJaatakaの韻文の比較はH. Oldenberg(1918)の「ジャータカ研究」の最終節<註46>でも行なわれた。Jaatakamaalaaは韻文と散文のバランスを保つために、韻文の少ないJaatakaを用いる場合には詩節を増やし、逆に韻文ばかりのJaatakaの場合には散文を増やしてい る。話全体の中で詩節が果たしている役割は両者で大きく違っている。またJaatakamaalaaの詩節の 作り方は(1)Jaatakaの詩節を大体そのまま使う場合、(2)Jaatakaの詩節を大きく書きかえて使う場合、(3)Jaatakaの詩節と関係なく、新たに詩節を創作する場合、の3つの場合があり、特に中間的な(2)の場合がJaatakamaalaaによるJaatakaの詩節の用い方を知る上で注目される。

 さてJaatakamaalaaは直接的にはパーリJaatakaの系統であるが、間接的には説話の伝承の上で他の多くのインド文学の作品と関係している。これまで伝承研究の観点から、いくつかのJaatakamaalaa の章においてJaatakaや他の説話の伝承との比較がなされた。それらの、Jaatakamaalaaの個々の章(jaataka)に 対してなされた比較研究をあげよう。

 第2章%Sibi-Jaataka に関しては町田順文(1980)によって<註47>、伝承の2系統ならびにその折衷型が区別された。

 第6章%Sa%sa-Jaataka に関してはAlsdorf(1961)によって<註48>Avadaana%sataka37話やPaaliとの比較がなされ、田井中善夫(1978)によって<註49>伝承の2系統が大別された。 

 第9章Vi%sva#mtara-Jaataka に関してはFick(1926)によって<註50>JaatakamaalaaとPaali Vessantara-j. (546)の対応関係が詳細に調べられた。

 第19章Bisa-Jaatakaに関してはCharpentier(1910)と Terrada(1980)によって<註51>伝承の分岐の様態が研究された。Terradaの論文は原実(1983)の詳しい紹介がある<註52>。

 第28章K#saanti-Jaatakaに関してはAttenhofer(1916)によって<註53>並行話が研究された。

 第31章Sutasoma-Jaataka に関しては渡辺海旭(1909)によって<註54>伝承の2系統が大別され、そ れぞれの系統が2形態に分けられた。 

 Jaatakamaalaaの研究は、以上で取り上げたほかにも、内外にかなりの論文がある<註55>。

Tib.: Toh 4150, Ota 5650, N(T)3641

  phags-pa dpa#h-bo造 Vidyaakarasi#mha, Ma%nju%sriivarma訳

Ch.: 大正 160. 菩薩本生鬘論(十六巻)    宋 紹徳慧詢等 訳

Skt.MSS.:

中央アジア断片:Turfan I,625,638

Bendall Add.1328 [→A], 1415 [→B];

Filliozat 44, 45-6 [→P];

Mironov 289;

%Saastrii I.21(9980)[→Ca, Cb];

Durbar p.11(359 I) = NGMPP A38/11 [→N];

Bir 106;

Matsunami 135 [→T], 136, 375;

Sanada VI;

Takaoka A26, GA19;

IASWR MBB-II-156;

BSP t#r295(1-256) = NGMPP B96/8 = Durbar p.167(295A);

BSP t#r289(1-257) = NGMPP A119/17 = Durbar p.158(289A);

NGMPP-Card A33/11(= t#r359)[palm-leaf,103 fols.], A125/18-126/1(= pa291), A858/20-859/1 = A119/18-120/1(= ca1377)[694 fols.], A922/4 = B96/9(= pa292)[106 fols.], B97/3(= t#r241)[161 fols.], B98/4(= pa74)[46 fols.], D16/12-17/1 [155 fols.], E667/3 [143 fols.], E1485/7 [5 fols.], E1711/24 [144 fols.] ; (2 MSS. of Leningrad)

MSS. of Parts:

vi%svantara-jaataka [Ch. 9]: Matsunami 375, 376, 29-III; Takaoka DH329

vi%svantaraavadaana (Jaatakamaalaantargata)[Ch. 9]: BSP t#r244(3-85) = Bir 302

上記Skt.MSS.の情報はKhoroche(1987) p.6-9 参照。なお、SBLN p.49にBodhisattvaavadaanaという写本があるが、干潟龍祥(1978)『本生経類の思想史的研究』(改訂版)p.107 によれば、Aarya%suura Jm.と異なるのは、第1章に Su(pra)bhaasaという本生話が付いていることで、第2章以下はAarya%suura Jm.と全く同じ。章の番号が1つづつ繰り下が って、全体で35章から成る。

なおJaatakamaalaavadaanasuutraの写本にもJm.が含まれている。Haribha#t#ta Jm.を参 照。

 Aarya %Suura のものかどうか疑わしい、Jaatakamaalaaという名の未同定の写本として、次のものがある: NGMPP-Card D38/7 [114 fols.], D44/3 [241 fols.], E665/2 [110 fols.], E1294/5-1295/1, E1740/11 [34 fols.]

また次の写本はJaatakamaalaaaと思われる:

%Satapatrajaataka: Takaoka DH357 [141 fols.], DH383 [110 fols.]

またBSP目録のt#r734(3-92)に343葉から成る%Satapatrajaatakaprakriyaaという写本があるが、筆者がマイクロフィルムで確かめたところ、写本の中身は全部Aarya%suuraのJaatakamaalaaであった。

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