S. Bealは1883年にBuddhacaritaの漢訳『仏所行讃』の英訳を出版したが<註1>、これが馬鳴の文学作品 Buddhacaritaがヨーロッパに知られる嚆矢となった。
梵本はオックスフォードのE. B. CowellとパリのS. L+eviによってそれぞれ別々に研究が 着手された。Cowellは南条文雄と笠原研寿が転写したBuddhacaritaのパリ写本を Max M%ullerから借り受け、またD. WrightとC. Bendallによってネパールから2本の写本がもたらされたため、それらの写本を使って、Buddhacaritaの校訂に着手した。一方L+eviはパリ写本のみに基づいて校訂を始めたが、CowellにBuddhacarita全章の校訂と翻訳の準備があると聞いて中止し、1892年のJournal Asiatique にBuddhacarita第1章の原典テキストと仏訳を発表したにとどまった<註2>。CowellによるBuddhacaritaテキストの出版は1893年になされた<註3>。
Cowell本テキストが校訂に用いた3写本は次のとおりである:
C写本 Wrightがネパールで得たケンブリッジ大学図書館本。
D写本 ネパールのカトウマンドウでBendallの求めに応じて一人のパンディットが筆写したCowell私蔵本。
P写本 HodgsonがカトウマンドウからBurnoufに送ったパリ国立図書館本。南条と笠原によって写され、また後にはL+eviによって2章から7章までの転写が貸し与えられた。
梵本の校訂においては、あまり互いに異読のないCとDの2本の写本が主に用いられ、これにやや杜撰な筆写のP本が参照された。漢訳・チベット訳は用いられなかった。
さてCowellが使用したこれら3本の写本のうちC本はコロフォンにおいて、ネパール紀元950年(西暦1830年)にAm#rtaanandaによって筆写されたこと、そして彼 Am#rtaanandaはBuddhacaritaの写本の第14章以下を各地に求めたが得られなかったので、彼自身が第14章(の第33詩節)から最後の第17章までを創作したことが記されている。P本にも類似の奥書が見られ、またD本にはコロフォンが欠けているが、やはり17章まで付加がなされていることから、3本の写本はいずれもネパールのカトウマンドウでAm#rtaanandaによって筆写され増補を受けた1原本からのコピーであることがわかる。
Am#rtaanandaが増補する以前の、archetype写本はのちにHaraprasaad %Saastriiにより発見され、1909年に報じられた<註4>。それはカトゥマンドウの Durbar Libraryにあった古貝葉写本(A)であるが、このA写本は1300±50年の筆写と思われ、archetype写本である証拠には、あちこちに後代の写本の空白のもとになった脱落・欠損がある。すなわちA写本は本来55葉から成るが、そのうち1・3・7・8枚目が欠けており、その欠損は詩節としては第1章1〜8b、24d〜40c、第2章1〜35詩節にあたる。A写本にコロフォンはなく、55枚目裏2行目つまり第14章31詩節で突然切れている。またA写本の欠損箇所とCowell本とを比べることにより、Cowell本の第1章1〜24、26〜28、43d〜45詩節もAm#rtaanandaによる補筆と推定される。
このように全部のネパール写本がたった1本のarchetype写本に遡り、しかもそのarchetype写本は、伝承が良好ではなく誤写や欠損の多いものであったために、それらの欠点はそのままCowell本テキストの問題点の多さとなって表れた。Johnstonによって新たな校訂テキストが作られるまでに、実に多くの学者の努力が、Cowell本テキストを改善するための原典批判にそそがれたのであった。Cowell本テキストからJohnston本テキストに至る間になされた、Cowell本への原典批判の業績を列挙すると、Kielhorn(1894), B%ohtlingk(1894), Kern & B%ohtlingk(1894), Speyer(1895), Windish(1895), L%uders(1896), Leumann(1896), Finot(1898), Hopkins(1901), de la Vall+ee Poussin(1913), Speyer(1914), Gawro+nski(1914/15), Hultzsch(1918), Gawro+nski(1919), Prasada(1920), Cappeller(1922), Gurner(1926), Schrader(1930) 等がある<註5>。またNandargikar(1911)とJoglekar(1912)は<註6>それぞれ独自の写本に基づいて新たなテキストを第5章までインドで刊行したが、特に後者Joglekarの用いた写本はCowellの用いたAm#rtaananda系の写本とは別の系統に属し(もちろんA写本に遡るが)、Cowell本を補う異読を提供した。
常磐井尭猷(1911-1921)は<註7>、上記の原典批判の成果を取り入れたローマ字転写本を新た に刊行したが、未完である。
さてA写本をネパールから送ってもらったJohnstonは、この古写本に基づきかつそれまでの学者の原典批判の成果を集大成する、新たなBuddhacaritaの校訂を企て、まず1927年に1 章から8章、1929年に9章から14章までの梵本の研究成果を発表した後<註8>、1935年についに決定的な校訂テキストを刊行した<註9>。ここにおいてBuddhacaritaの研究は新たな原典研究 のための確実な礎を得た。
Johnston本以降、新しいネパール写本がいくつか報告されたが、古写本Aを越えるものは発見されていない。ネパール系写本における、近づき得る最良のテキストとしてのJohnston校訂本の価値は今後も変わらないであろう。ただ、断片であるが写本としてはA写本よりも遥かに古い、6〜7世紀のものと思われるBuddhacaritaの断片2葉が、中央アジアのSorcuk付近から発見され、ドイツに持ち帰られた。Weller(1953)によって<註10>研究が発表されたそれらの断片は、一枚目がJohnston本の3章16〜29詩節、2枚目が16章20〜36詩節にあたる。特に2枚目の部分はネパール写本で失われた箇所にあたるので貴重であるが、写本の欠損のため、完全な姿の詩節は1つもない。中央アジアからのBuddhacaritaの写本は現在この2葉が報告されるのみである<註11>。
Buddhacaritaの近代語への翻訳は、常にテキスト研究の進展と歩みを共にしてきた。初めにL+evi(1892)が<註12>Buddhacarita第1章のテキストに仏訳を付けて発表し、次いでCowell(1894)が<註13>、17章までの全訳をテキスト校訂につづいて刊行した。そののち、多くの翻訳が、前述したCowell本への盛んな原典批判と平行して、発表された。Windish(1895)の部分訳(10・11章 の独訳)、Formici(1912)の伊訳、Balmont(1913)の露訳、Held(1912)・Cappeller(1922) ・Schmidt(1923)の独訳、平等通照(1929)(1939)の和訳、インドのSovani(1911)・Nandagikar(1911)・Joglekar(1912)・Lokur(1912)の第5章までの英訳、等がある<註14>。これらのほとんどはCowell本に訂正を加えつつ訳された。
さてJohnston(1935)の新たな校訂テキストの出版によって、それに基づいた新たな翻訳が必要になったが、Johnston自身によってその課題は果たされ、1936年に新たなBuddhacarita の英訳が刊行された<註15>。Cowellの訳が17章あるのに対して、Johnstonの新訳は14章までであるが、これは梵本の第14章33詩節以下はAm#rtaanandaによって作られたものとわかったためである。ただJohnstonは第14章を完結させるため、第14章の33〜108詩節の部分を、漢訳を参照しつつチベット訳に基づいて訳出した。
Buddhacaritaの漢訳とチベット訳は28章全部が伝えられている。漢訳「仏所行讃」はBeal(1883)によって<註16>〈東方聖書〉叢書の第19巻として英訳された。このBealの訳はさらにSchultz(1895)によって<註17>独訳され〈レクラム〉文庫に納められた。しかし漢訳そのものが翻訳としての精度が良くない上に、Bealの英訳もあまり忠実なものではなかった。恣意的な漢訳よりも、原文の生硬な直訳であるチベット訳によってBuddhacarita後半の原文に近づこうとする試みは、寺本婉雅(1924)の<註18>チベット訳からの和訳によって初めてなされた。しかし批判的な訳ではない。ドイツのWellerはチベット文テキストを確定し、そこから批判的な翻訳を行おうとして、第1章から第8章までの(ナルタン版による)チベット文テキストと独訳を1926年に、また第9章から第17章までを1928年に刊行したが<註19>、残念ながらそこで中断してしまった。その後Johnston(1937)が<註20>、梵本の校訂(1935)と英訳(1936)に続いて、梵本の失われた第15章から終章28章までの部分をチベット訳に基づいて英訳した。彼によればこれは単なるチベット訳からの重訳ではなく、漢訳をも参照して出来るだけ失われたオリジナルを再現しようとした翻訳である。しかしBuddhacarita後半の初めての全訳であっただけに、チベット訳の難解さのため問題をかなり残しての翻訳であった。
Sieglingは1906年からCowell本に基づいてチベット=サンスクリットの語彙カードを作成していたが、1985年にその語彙集が彼の遺稿として出版された<註21>。
Johnston以後、Buddhacaritaの原典批判は一応終了したかに見えたが、Vogel(1965/6)は<註22>チベット訳と梵文を厳密に照合することによってJohnston本テキストの第1章を再批判し、修正を加えた。つづいてHahn(1975)は<註23>同じ第1章の、梵本が欠落している第1〜第7詩節、第25〜40詩節の部分をチベット訳により再批判した。このことはJohnstonの研究がチベット訳の立場から見るとき、まだまだ多くの研究の余地を残していることを示している。こうしてJohnston以後は、各国語の新たなBuddhacarita前半部の翻訳の外に、後半部のチベット訳の 批判研究が課題として残されることになった。
Johnston本に基づく新たな翻訳として、Caudhari(1943, 44)のヒンディー語訳、原実(1973)の和訳、Pisani(1962)の第3章の伊訳、Passi(1979)の伊訳、そして梶山・小林・立川・御牧(1985)の和訳等がある<註24>。Caudhariの訳は2巻に分かれ、第1巻は梵本の14章までをヒンディー訳と対照して挙げ、第2巻はJohnston(1937)の15章から28章の英訳を重訳したものである。原とPassiは梵本部分のみ(14章まで)を訳した。梶山・小林・立 川・御牧(1985)の訳は前半部分の梵本が立川・小林により、後半部分のチベット訳が梶山・御牧により、批判的に翻訳され1冊に合したものである。この14章31詩節以下のチベット訳部分は、寺本(1924)・Johnston(1936)・平等(1969)によって先に翻訳が試みられているとはいえ<註25>、それらはチベット訳の校訂に基づく批判的な翻訳とは言えず、その意味で梶山・御牧によるチベット訳への原典批判の詳しい注記が付けられた翻訳は、画期的な仕事となった。このほか、チベット訳の研究としては、Weller(1980)の<註26>Buddhacaritaのチベット訳 におけるデルゲ・チョーネ・ナルタン・北京の諸版の伝承系統についての比較研究がある。彼によればチベット訳は梵本古写本Aとほぼ同じ伝承に属するが、チベット訳の古い姿を示すデルゲ・チョーネ版と新しい姿を示すナルタン・北京版の間に新たな梵本の介入による改訂があったことが推定されるという。
外薗幸一(1981a) (1981b, c, 82a)は<註27>、Am#rtaanandaがいかなる資料に基づいて14章から17章 までの付加部分を作ったのかを調べるために、Cowell本の14章から16章までを和訳し、Am#rtaanandaが主に基づいた資料はLalitavistaraとMahaavastuであるらしいことを指 摘した。特に16章はLalitavistaraの逐字的借用が顕著である。
杉浦義朗(1986)は<註28>Buddhacaritaの流麗な文語調の和訳を出版したが、残念なことにJohnston本を 用いず、Cowell本によって訳した。14章以降28章までは北京版のみを用いて訳した。翻訳には問題があるものの、日本語の美しさは比類がない。
以上、Buddhacaritaの研究を校訂・原典批判・翻訳に限って紹介したが、もちろんBuddhacaritaの研究史はこれらに尽きるものではない。特にBuddhacaritaを含めた馬鳴の作品全般をインドの土着の修辞学 の立場から解明しようとした研究は実に多い。またBuddhacaritaの言語的な研究、思想的立場の研究などがある<註29>。
Tib.: Toh 4156, Ota 5656, N(T) 3647
Rta-dbya+ns(馬鳴)造 Sa dba+n bza+n-po, Blo-gros rgyal-po訳
Ch.: 大正 192. 仏所行讃(5巻) 馬鳴菩薩造 北涼 曇無讖 訳
Skt.MSS.:
Filliozat 76 [→P]; Bendall Add.1387 [→C]; Durbal p.42(III.364A) = BSP t#r191(t#r364と修正)(2-101) = NGMPP-Card B24/28 [palm-leaf][→A]; Bir 46; Matsunami 256,257; BSP t#r297(2-100) = NGMPP-Card B109/14 ; NGMPP-Card B109/12 = A916/2(= pa234), B319/4(= pa6890), B319/17(= t#r297)
Cowell私蔵本[→D]は所在不明。
Turfan I, Nr.432
Buddhacarita [Newaarii version]: NGMPP-Card G56/10 [60 fols.]
注意:%Saastrii No.118とSBLN pp.78-79にBuddhacaritraという作品があるが、馬鳴の作ったBuddhacaritaではなく、Nathamala(或いは Naathuraama Brahmacaarii)という名のベナレスに住む托鉢僧がSa#mvat 1755-1767年(西暦1698-1710年)に10年がかりで作った作品である。
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