仏教徒の戯曲として、2世紀頃のA%svagho#sa作%Saariputraprakara#naやRaa#s#trapaalanaa#takaと、7世紀のHar#sa作Naagaanandaとの、ちょうど中間に位置する戯曲が、Candragomin(5世紀)のLokaananda(人々のための喜び)であり、これはチベット訳とモンゴル訳のみで伝わる。
歴史家プトンならびにターラナータによれば、論師DharmakiirtiがUtphullapu#spa王に名を尋ねられた時、「知恵を有することDignaagaの如く、弁舌の極めて美しきことCandragominの如く、また詩人%Suuraに由来する作詩法に巧みであり、諸方において最勝なるものは、われにあらずにして誰か」と答えたと記している。ここでCandragominの名前が、DignaagaやAarya%suuraとならぶ偉大な名前として、Dharmakiirtiの口から上げられていることは、Candragominの評価がインドでいかに高かったかをうかがわせる。
Candragominは、まず文法家として極めて有名である。彼の『チャンドラ文法』Caandravyaakara#na、『チャンドラ註』Candra-V#rttiの著作は<註1>、所謂「チャンドラ方式」を確立した革新的な文典であり、インドの仏教徒、インド周辺のチベットやジャワ・セイロンなどの仏教国において広く学ばれた。
だが、Candragominは一方で戯曲Lokaanandaや書簡詩%Si#syalekhaの作品の作者である 。上述の伝説で「弁舌の極めて美しき」とCandragominをいっているのは、詩人としてのCandragominを念頭に置いて言った表現かもしれない。
戯曲Lokaanandaは、Handurukande(1967)の<註2>Ma#nicuu#daavadaanaテキスト・翻訳の出版 に付けられた第1・第2付録として、チベット訳Lokaanandaテキストのローマ字転写と内容梗概が発表されたのが、研究の始まりであった。
このHandurukandeによるLokaanandaのチベット訳テキストは、あまりに誤りに満ちていて使用に耐えないことがHahn(1971)によって批判された<註3>。
Handurukandeは、Lokaanandaの作者Candragominは7世紀頃に生き、一方文法家としてのCandragominは5世紀までに活動していたとして、両者は別人であると主張した。これに対してHahn(1971)は、Lokaanandaの序幕における座頭のセリフとして、この戯曲の作者は 「簡潔・明瞭・完全な文法」を作ったということを、作者自らが自己紹介していることを決定的な根拠として、文法家Candragominと戯曲の作者Candragominが同一人物であることは確実であると指摘した。文法家Candragominは、後続する文法家との年代関係から、5世紀より後に置くことはできず、そのため戯曲Lokaanandaも5世紀頃の作品と見做されるべきである。
ただしHahnのこの判断は、義浄がインドに行った時にまだ東インドにCandragominが生存していたという『南海寄帰内法伝』の義浄自身の報告 (大正 54、229c) と相容れないものである。もしかすると義浄は当時(7世紀)ナーランダーで活動していたはずのCandrakiirtiと名を取り違えたのかも知れない、とHahn(1974a)はいう<註4>。
さてHahn(1974b)は<註5>Lokaanandaチベット訳の校訂テキストを、豊富な註とグロッサリー を付け、独訳と対照させて出版した。校訂はチョーネ・デルゲ・ナルタン・北京の4版に基づいて行われた。
この出版の序文において、HahnはLokaanandaの源泉となった資料を調べている。戯曲LokaanandaはMa#nicuu#da王子の話を内容とするが、次の6種のMa#nicuu#da説話の作品がLokaanandaと比較された:
(1)Ma#nicuu#daavadaana(Divyaavadaanamaalaaの一部?)
(2)パリ写本Svaya#mbhuupuraana第4章のMa#nicuu#dakathaa(韻文)
(3)パリ写本Svaya#mbhuupuraana第4章のMa#nicuu#dakathaaの、78偈と79偈の間に挿入されている散文部分
(4)K#semendraのAvadaanakalpalataa第3章のMa#nicuu#daavadaana
(5)Newaarii語版Ma#nicuu#daavadaanoddh#rta
(6)Mahajjaatakamaalaaの中のMa#nicuu#da物語
Hahnによれば、これらのMa#nicuu#da説話の起源はおそらく、今は失われたGu#naa#dhyaのB#rhatkathaaに遡るが、そこから詳細な版のA系統と、簡略な版のB系統との、2つの系統に話の伝承が分かれたと思われる。A系統はLokaanandaと(3)が属する。B系統に属するのは、(1)と、(1)から派生した(2)(4)(5)である。(6)の位置は両系統にまたがるもので、A系統の(3)と密接な関係があると思われる一方<註6>、B系統の(1)からも直接汲んでいる。
Hahnはこの他にも序文において、作者のCandragominの文法家=戯曲家の問題、ならびにLokaanandaのチベット訳とモンゴル訳について解説している。Lokaanandaのチベット訳は14世紀前半になされたが、よい訳ではない。チョーネ・デルゲ・ナルタン・北京の4種の版の元になったシャル寺蔵経において、訳されたばかりの翻訳者自身のぞんざいなLokaanandaの草稿が、そのまま入蔵されたらしい。モンゴル訳は1742年から1749年の間にチベット訳北京版に基づいて作られた。
Hahn(1977)は<註7>サンスクリット詞華集の中にCandragomin作として上げている詩節を調査した。彼はVallabhadevaのSubhaa#sitaavaliと、Bhagadatta Jalha#naのSuuktimuktaavaliiと、%SriidharadaasaのSadukti-Kar#naamitraの、3つの詞華集から取り出したCandragominの詩節のなかに、%Si#syalekhaの4つの詩節とLokaanandaの2つの詩節を見出した。特にLokaanandaのものは梵本が 無いだけに貴重である。この論文の末尾には、Hahn(1974b)のLokaanandaの出版の正誤表 がある。
最近Hahn(1987)は<註8>Lokaanandaの英訳を出版した。
Tib.: Toh 4153, Ota 5653, N(T)3644
Candragomin 造 Kiirticandra, Grags-pa rgyal-mtshan 訳
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