2.KumaaralaataのKalpanaama#n#ditikaa
D#r#s#taantapa+nkti
Kumaaralaataの作品 Kalpanaama#n#ditikaa D#r#s#taantapa+nkti(譬喩の列なり)の 研究は、鳩摩羅什訳の漢訳『大荘厳論』によって始められた。
S. Beal(1882)は<註1>『中国における仏教文献についての4つの講義の摘要』の本において、『大荘厳論』の幾つかの物語を紹介した。これが欧州に作品が知られた始めである。
次いでS. L+evi(1896/7)は<註2>インド・スキタイ人の支配者Kani#ska王に関する歴史的な諸 問題の研究の中で、『大荘厳論』にある、Kani#ska王が言及されている2話を発表した。
S. L+eviはこの漢訳『大荘厳論』の梵本を、1898年のネパール旅行で探し求めたが 、見付けることができなかった。漢訳『大荘厳論』は馬鳴作と記されており、L+eviは馬鳴に強く惹かれていたからである。しかしこの空しい『大荘厳論』原本の探索は、Asa+ngaの Mahaayaanasuutraala#mkaaraの梵文写本の発見に結びついた。L+eviは『大荘厳論』の原名をSuutraala#mkaaraと考えていたため、似た名前の唯識論書を偶然ネパールで得ることができた。
『大荘厳論』の梵名をL+eviがSuutraala#mkaaraと呼ぶわけは、南條カタログ(No.1182)が、梵名にSuutraala#mkaara-%saastraの語をあてたのを受けて、修飾的な -%saastraの語を切り捨てて、作品名と見做したのである。南條文雄は、『至元法宝勘同総録』を主に漢訳経の梵名の推定のために用いたが、この『至元録』では、『大荘厳論』を「大荘厳経論」と記し、『大乗荘厳経論』の次に位置せしめている。そして『至元録』では「大荘厳経論」の梵名がSuutraala#mkaara-%saastraとして挙げられている(縮刷蔵 結帙巻八 74丁左; 昭和 法宝総目録第2巻 p.228, No.1314)。しかしSuutraala#mkaara-%saastraという還梵された梵語名が基づいた「大荘厳経論」という書名は、単に『開元録』以後に現われて『至元録』まで踏襲された「大荘厳論」の異読にすぎず、「経」の字は後から入り込んだものである。従って、「大荘厳経論」という題名に基づいて『至元録』で作られたSuutraala#mkaara-%saastraという梵語名は完全に誤りであることになる。友松(1931)が<註3>このことを指摘するまで、しばらくヨーロッパの学会では『大荘厳論』はSuutraala#mkaaraという名で呼ばれることになる。
さて、『大荘厳論』の梵本を得ることができなかったL+eviは、弟子のE. Huberに、漢訳『大荘厳論』を翻訳することを勧めた。Huberは1908年にその全訳を、A%svagho#sa, Suutraala#mkaaraと題して出版した<註4>。この仏訳出版の同年に、L+evi(1908)は<註5>、『大荘厳論』の90章の物語の各々の梗概をのべつつ、それに対応する並行話を梵・巴・漢・蔵の仏教典籍から拾って、『大荘厳論』のソースを探った。そして全体的に北伝の阿含や根本有部の律蔵との関係がつよいことを指摘した。
Przyluski(1923)は<註6>A%sokaavadaanaの仏訳と研究において、Divyaavadaanaや『阿育王伝』と『大荘厳論』との密接な関係を指摘した。
この後、ドイツの von Le Coq 隊がもたらした中央アジア梵本断片が、『大荘厳論』の 研究に大きな展開をもたらした。当時中央アジア出土の梵文写本断片を整理していたH. L%udersは、漢訳『大荘厳論』によく一致する梵文の写本断片が、Qizil出土のものとToyoq 出土のものとの、計2本あるのを見つけて研究し、これを『大荘厳論』の梵本と見做して、さっそく1919年にその梵本の書名はSuutraala#mkaaraではなくKalpanaama#n#dini(?)kaaと読まれることを発表し<註7>、さらに1926年にテキストと研究を『KumaaralaataのKalpanaama#n#ditikaa 断片』と題して出版した<註8>。Qizil出土のもの (Turfan I, Nr. 21) は393断片から成る貝葉写本で、書体から4世紀初めのものかと思われる。Toyoq出土のもの (Turfan I, Nr. 638) は、Var#naarhavar#naとAarya%suura Jaatakamaalaaに引き続いてKalpanaama#n#ditikaaが写されている紙の写本で、Kalpanaama#n#ditikaaにあたる部分が2葉 と11断片残っており、およそ9世紀の北インドの文字で書かれている。
さて書名は、Qizil出土断片の30章の末尾には
(ity=aaryakau)m[aa]ralaa(taayaa#m) .. kalpanaama#n#ditikaa(yaa#m d#r#s#taanta)pa#mktyaa#m tritiiyaa da[%sa](tii samaaptaa 3 //◎//)
また、その断片の60章の末尾には
(ity=aa)ryakaumaaralaataayaa#m kalpanaala#m[k](#rt)i(kaayaa#m d#r#s#taantapa#mktyaa#m #sa#s#thii da)[%sa]t[ii] samaaptaa 6 //◎//)
また、その断片の90章の末尾には
bh[ik]#s[o](s)=t(aak)[#s](a%sila)[k](as)y(a aa)[ryaa] .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. .. ..(samaa)ptaa 9 // samaaptaa ca kalpanaama#n#ditikaa d#r#s#t[aa](n)[t]a ///
とあった。L%uders(1926)は、この30章と90章のコロフォンを見ると「聖Kumaaralaataに属するKalpanaama#n#ditikaa」が書名となっており、60章のコロフォンからは、Kalpanaala#mk#rtikaa という別の書名も異読として得られるが、Kalpanaama#n#ditikaaをいちおうこの写本の書名と考え、漢訳『大荘厳論』の梵本はこのKalpanaama#n#ditikaaであり、また漢訳が馬鳴作と伝えるのは誤りで、写本からKumaaralaata(童受)が作者であると主張した。このKumaaralaataは経量部 (Sautraantika) の祖とされる人物である。
これに対しL+evi(1927)は反論し<註9>、同じコロフォンの中から回復されるd#r#s#taanta-pa+nktiという語に注意して、kalpanaama#n#ditikaa(修辞的な仕上げによって飾られたも の)やkalpanaala#mk#rtikaa(修辞的な仕上げによって装飾されたもの)の語は単なる修飾のepithetにすぎず、その次の語 D#r#s#taanta-pa+nkti(譬喩の列なり)が本当の書名であり、これは光記 (大正 41, 35c) や成唯識論述記 (大正 43, 274a, 358a) にいわれる鳩摩羅邏多 (Kumaaralaata) の「喩鬘論」にあたるものと推定した。そしてL+eviは「喩鬘論」 D#r#s#taanta-pa+nktiを安易に馬鳴の『大荘厳論』と同一視してしまうことに疑問を投げかけた。2年後L+evi(1929)は<註10>さらにチベット大蔵経テンギュル部の中のD#r#s#taanta-maalyaを 、問題解決の新しい資料として、そのテキストを紹介し、『大荘厳論』の第1話にあたるこの部分的なチベット訳を用いて、漢訳およびD#r#s#taanta-pa+nktiの対応する部分との比較をおこなった。L+eviはここでチベット訳D#r#s#taanta-maalya(喩鬘)がD#r#s#taanta-pa+nktiと同一の作品であることを確認した。しかし漢訳『大荘厳論』はチベット訳D#r#s#taanta-maalyaとは異なる作品であると彼は判断し、やはり断片D#r#s#taanta-pa+nktiは馬鳴の『大荘厳論』ではなく、馬鳴の作品をKumaaralaataが改作した作品であるとする結論にたどりついた。
こうしてL%udersとL+eviの意見がはっきり分かれるにいたったが、これより、『大荘厳論』の作品名と著者をめぐって、L%uders説のごとくKumaaralaataの「喩鬘論」D#r#s#taanta-pa+nktiと同一視するか、L+evi説のごとく先に馬鳴が作った別の作品と見なすかで、多くの学者の意見も分かれるにいたった。
ドイツのJ. Nobel(1928) (1931)は<註11>基本的にL+eviに同意し、一方フランスのPrzyluski(1930) (1932)は<註12>D#r#s#taanta-pa+nktiの、『大荘厳論』からの改作本説を認めず、逆に『大荘厳論』こそが、譬喩者 (Daar#s#taantika) の祖たるKumaaralaataによって作られた作品からの、馬鳴による改作本であるとした。このPrzyluski説は窺基の伝承に基づくが、その信憑性は加藤純章(1980)によって疑問が投げかけられた<註13>。宮本正尊(1929)と美濃晃順(1930)は<註14>L%uders説を新たに弁護したが、友松円諦(1931)は<註15>D#r#s#taanta-pa+nktiを『大荘厳論』と同一視した上で、『大荘厳論』の訳者が羅什であることを疑い、『大荘厳論』の作者が馬鳴である可能性も訳経史をふまえて否定し、さらにKumaaralaataが実際の作者である可能性も否定した。これに対し金倉円照(1957)は<註16>『大荘厳論』が最古の経録になく、訳語等も羅什の訳とするに疑念を懐かせる点があるとしても、中国の所伝は軽々しく覆されない根拠をもつとして、L+evi説を擁護した。また辻直四郎(1973)も<註17>『サンスクリット文学史』において、L+evi説が最も妥当であるとの見解を示した。一方Bhattacharya(1976)は<註18>『大荘厳論』とD#r#s#taanta-pa+nktiの両方の研究に紙幅を大きく割いて、詳しい説明を行った後に、L%uders説を支持した。
以上の紛糾した議論に終止符を打ったのがHahn(1982)である<註19>。Hahnの行ったことはただ、チベット訳D#r#s#taanta-maalyaをもう一度読み直すことであった。L+evi(1929)が初めて漢訳『大荘厳論』とこのチベット訳を比較して、両者は別の作品であると判断を下したわけであるが、それ以降、学者は誰もL+eviの判断をそのまま引用するだけで、再検証しようとはしなかった。Hahnはもう一度D#r#s#taanta-maalyaを調べ、逆にそれが疑いなく 漢訳と同一の作品であることを発見した。L+eviはあまりに馬鳴に思い入れが強すぎたた めに、せっかく決定的な資料を手にしながら、馬鳴説に有利な方に判断が引きずられて、些細な差異に目を奪われ、誤った判断を下したのだと思われる。こうして出口がないかに見えた議論は、以外な身近に出口が開いていたわけである。
第1章までしかないD#r#s#taanta-maalyaの原本がD#r#s#taanta-pa+nktiであることはL+evi(1929)によって気付かれたわけであるが、次いでD#r#s#taanta-maalyaは漢訳『大荘厳論』と同一であることがこのようにHahn(1982)によって確かめられたために、結局L%uders説のごとく、KumaaralaataのD#r#s#taanta-pa+nktiは漢訳『大荘厳論』と見做される。
なお、本庄良文(1983)は<註20>Abhidharmako#saの注釈 Upaayikaaチベット訳に、Kumaaralaataの Dpe#hi phre+n ba (= D#r#s#taanta-maalya or D#r#s#taanta-pa+nkti) からの第56話の引用が あることを指摘した。その引用は漢訳・梵文資料と対応が確認できる<註21>。
Skt.MSS.: Turfan I, Nr. 21, Nr. 638; Turfan V, Nr. 1015.
(Turfan V, Nr.1015は、L%udersの2写本 (Turfan I, Nr.21, Nr.638) 以後に、あらたに見つかったXoco出土の1小片である。)
Tib.:Toh 4196, Ota 5695, N(T) 3686
作者名なし; Dharma%sriibhadra, Tshul-khrims yon-tan訳;Rin-chen bza+n-po校閲
Ch.:大正 201. 大荘厳論経(十五巻) 馬鳴菩薩 後秦 鳩摩羅什 訳
[國訳 本縁部八]
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