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岡野潔『インド仏教文学研究史1:
仏伝 Mahaavastu 研究史』

 Mahaavastu avadaana 大事譬喩

 フランスのE. Senartは梵文Mahaavastuの校訂本を3分冊として1882年・9 0年・97年に出版した<註1>。この校訂テキストは各冊ごとに写本の異読と内容梗概および詳細な註が付けられた模範的なものであり、今日でもその価値を失わず、Mahaavastu研究は現在もこの校訂本に基づいてなされている。Senartがこの校訂本のために利用した写本は6本である。すなわち、Biblioth#eque NationaleのE. Burnouf寄贈の2本の写本BとN、パリのSoci+et+e AsiatiqueのA写本、Cambridge大学図書館のC写本、Minayeff所有のM写本、ロンドンのAsiatic SocietyのL写本である。初めはこれらの6本の写本全部を参照した が、途中からその必要がないことに気づき、Mahaavastu I, 193.13-III, 47.9まではB写本とC写本の2本、III, 47.10以降はB写本とM写本の2本のみを用いている。Senartによれば、6 本の写本はB−A−Nの系統とC−M−Lの系統に分かれるが、両系統はネパールにある1本のオリジナルにまで帰着する。この原本たる1写本について、SenartはCowellから伝え聞くのみで、入手することはできなかった。そこでB系統とC系統の両方を比べながら、原本を推定したのである。しかしこの原本写本にもかなり誤写があったことが予想される。私達は最終的に1写本に限られてしまう伝承の不完全を承知しながら、Senartのテキストを利用しなくてはならない。

 近年このSenartのほかにインドから新たなMahaavastuの原典テキストの出版があった。R. Basakは1963年・64年・68年に3分冊で<註2>、またS. Bagchiは1970年に3分冊の予定で第1冊のテキストを出版した<註3>。しかしどちらの出版もテキストはほとんどSenart本をそのまま踏襲しており、新たな写本の参照はなされていない。従って学術的にはSenart本を越えていないが、Basak本にはベンガル語の翻訳が付けられ、各巻頭には英文で詳しい内容梗概が付されている。またBagchi本にはシュローカ索引が付けられており、役に立つ。

 Senartによる原典の出版によって、Mahaavastuの研究が本格的に始まる。しかしSenartの出版 以前のMahaavastuの研究として、R. Mitra(1882)の<註4>『ネパールの梵語仏教文献』を忘れることはできない。そこではMahaavastuの全体の内容が47ページにわたって紹介されている。

 Windischは1895年と1909年の2本の長大な論文で、仏伝中のマーラ(魔)説話および仏陀の誕生説話について、Mahaavastuを含む梵語・パーリ語の資料をひろく用いて比較研究を行った。1895年の論文では<註5>WindischはSenart出版本を第2巻までしか利用できず、研究の補遺(Anhang)として扱わざるを得なかったが、Mahaavastu II, 198以下の文をパーリのPabbajjaasuttaと対照し、またMahaavastu II, 237以下の文をパーリPadhaanasuttaやLalitavistaraと比較した。1909年の論文では<註6>、Mahaavastu, Lalitavistara, Buddhacarita, Nidaanakathaaなどの仏教文献や、仏教以外の諸文献を用いて、入胎・マーヤーの夢・六牙の象・化生としての出生など、仏陀の誕生をめぐる各エピソードの、その背後にある思想を読み取ろうとした。つづいてWindischはMahaavastuの成立の問題に目を向け、1909年にそれに正面から取り組んだ論文を発表した。Windisch(1909b)は<註7>まずMahaavastuはインドの中国地方(madhyade%sa)に住した大衆部の説出世部が伝持した律蔵文献の一部であるという、最も基本的な事項について確認したのち、パーリ律蔵Mahaavagga1〜24節とMahaavastuとの比較を行い、両者の類似から、Mahaavastuが律蔵の受戒けん度の仏伝を核として成長したものであることを推定した。

 Charpentierは1909年にMahaavastuについて2本の論文を発表した。Charpentier(1909a)は<註8>先にWindisch(1895)がLalitavistara24章にパーリ文Maarasa#myutta 3.5 Dhiitaroと対応する文を見出したことに倣い、Mahaavastuの第3巻の中にもMaarasa#myuttaとの対応箇所を見 出し、比較検討した。比較箇所はMahaavastu III, 415.6-416.8とMaarasa#myutta 1.5 Paasa(2)、Mahaavastu III,417.7-418.7とMaarasa#myutta 1.8 Nandana、そしてMahaavastu III, 281.11-286.7とMaarasa#myutta 3.5 Dhiitaroである。Charpentier(1909b)の論文は<註9>%Sriicampaka-naagaraaja Jaataka (MahaavastuII,177.4-188.22)、Ma%njarii Jaataka (Mahaavastu II, 48.16-64.6)の研究である。

H. Oldenbergは1912年にMahaavastuの文体について2本の論文を発表した。Oldenberg(1912a)は<註10>Mahaavastuの文体をAとB(とBダッシュ)に分け、AとBの違いに、成立した時代の違い・ソースの違いを見る。文体Aは梵文のアヴァダーナ文献に見られる名詞文章的な文体であり、文体Bはパーリ経典に見られる動詞定形を多用する聖典的な古い文体である。文体Bが用いられている部分は古いソースに基づいており、また文体Aの部分は新しく出来た部分であると推定される。さらに文体Bダッシュとは、新しく書かれたにもかかわらず古い文体Bを模している文体で、古いソースに基づく部分に見られる文体Bと区別する必要上、この見せかけの文体をBダッシュと名付け、実は文体Aの時代に属する変則的な文体であるとした。またOldenbergは文体Bで書かれた古いソースに基づく部分、Mahaagovindiiya Suutra III,197.11-224.9 (= DN.19)とJyotipaalasuutra I, 317.4-335.8 (= Gha#tiikaara-sutta, MN.81)など をパーリの阿含と比較して、説出世部の所有した阿含の伝承は付加が多い点で、パーリ上座部の伝承より信頼性が劣るものであると結論づけている。さらにOldenberg(1912b)では<註11>、論文(1912a)においてMahaavastuについて気づかれた文体の違いの事実が、DivyaavadaanaやAvadaana%satakaについてもあてはまることを確かめている。

 Kern(1912)は<註12>Ka#n#thakaの授記Mahaavastu II,189〜195の、特に韻文の部分192.19-195.2の箇所を研究した。

 Tuneld(1915)は<註13>、成道から梵天勧請までの、律蔵に由来する仏伝の最も古い部分について、漢訳仏典を含むあらゆる資料を参照して、諸部派の伝承を比較した。MahaavastuについてはIII, 272.18-322.7の部分が、他の仏伝資料との比較に用いられた。

 Poussin(1915)は<註14>宗教倫理百科事典(ERE)第8巻のMahaavastuの項目を担当して、それまでのMahaavastuの研究を手際よくまとめた。彼はMahaavastuを「大乗と小乗の中間にかかる橋」と捉えている。

 Zimmer(1925)は<註15>全体として仏伝である作品Mahaavastuがavadaanaと名付けられていることに注 意して、Winternitz等のavadaanaの語の定義に抗して、新しい語源的な定義を提唱した。彼によれば、avadaanaの語は語根 √daa「与える」(3類動詞)とは別な語根 √daa「結びつく」(4類動詞)から派生して、原因・因縁 (nidaana) の意味になった。Mahaavastuが仏伝でありながらavadaanaと呼ばれたわけは、それが「大いなる出来事」すなわち悟りの原因・因縁をのべた物語であるからである。

 Franke(1929)の論文「アビヤ比丘の物語」は<註16>、著者の遺稿から発表された、Abhiya-vastu (Mahaavastu I, 34.1-45.16)の独訳である。またFranke(1930)の論文「苦の世界における目連の回遊」は<註17>同じく遺稿から発表された、地獄品を含むMahaavastu I, 4.15-33.17の独訳である。

 Law(1930)は<註18>Mahaavastuの内容を梗概のかたちでまとめた。

 日本では、ドイツのLeumannの許に留学していた諸学者の帰朝とともに、Mahaavastuの独訳・和訳が次々と発表された。Leumann-藤田(1933-1939)は<註19>Mahaavastu I, 1.1-4.11および9.2-33.17の校訂テキストと和訳を発表した。渡辺照宏(1933)は<註20>Mahaavastu I, 9.2-16.7(地獄品)の校訂テキストと和訳を発表した。この地獄品の翻訳には荻原雲来(1933)の批評訂正が併載された<註21>。同年から荻原−久野(1933-1935)は<註22>、地獄品を含むMahaavastu I, 1.1-63.14を和訳し、原文を修正した。Leumann-白石[藤田](1952-1962)は<註23>Mahaavastu I, 1.1-193.12の独訳を発表した。この独訳のHeft IIには、付録としてMahaavastuの構成を考察した論文が<註24>、英文・和文で付されている。白石(1958)は<註25>それをもう一度論じた。Leumann-渡辺(1970)は<註26>Mahaavastu II, 83.13-121.14の独訳を発表した。

 ゲッチンゲンに留学した季羨林はMahaavastuの言語的研究を行った。季羨林(1941)は<註27>学位請求論文としてMahaavastuの韻文部分における定動詞の俗語的な活用形を研究した。また季羨林(1943)は<註28>トカラ語のPu#nyavantaジャータカと比較するため、並行資料たる6本の漢訳経典と共に、MahaavastuのPu#nyavanta-jaataka (III, 33.8-41.11) を独訳した。また季羨林(1949)は<註29>、OldenbergがMahaavastu等で見出した新しい層と古い層を区別するための有効な目印として、アオリストに注目した。新しい文体Aではめったにアオリストが出ないのに対して、古い文体Bではほとんど唯一の過去時制のように、頻繁にアオリストが使われる。このことを、Mahaavastuの 中からAとBが対照的な多くの例を示して証明し、さらにそれがDivyaavadaanaでも同じくあてはまることを示した。またDivyaavadaanaやLalitavistara等の資料ではサンスクリット化の進展とともにアオリストから直接法過去や過去分詞への書き換えが始まっているいるため、アオリストの支配はMahaavastuにおけるほど顕著ではなくなっている。つまり、アオリストの減少から素材が生かどうか判断することができるわけである。著者はさらにMahaavastu に文体Bのソースは本来東部方言で書かれていたということを証明するために、(1)男性複数呼格 -aaho、(2)y-eva、(3)願望法単数 -eha#m, -eha、(4)y の v による代置、(5 )hotiや、またL%udersの指摘した(6)複数主格 -aa、(7)男性(女性)複数対格 -aaniなど、古い半マガダ語の特徴と共通する多くの特徴をMahaavastuから集めた。そして、諸方言の中で特にアオリストを好んで用いた方言が東部方言であることを碑文等から確認し、Mahaavastuを含む多くの仏教文献の古いソースのオリジナルが本来東部方言で書かれていたと推定した。

 J. Jonesは3分冊で1949年・52年・56年にMahaavastuの英訳を出版し、全訳を完成させた<註30>。これより、全体を翻訳によって見渡すことが可能になった。

 Thomas(1950)は<註31>仏教文献の英訳選文集を編んだが、Mahaavastuからも11の抜粋訳が上げられた。彼が訳した箇所はMahaavastu I,168.4ff.(出世間なる仏陀); I, 283.7ff.(悪魔退散本生); I, 290.11ff.(招福の呪文); II, 30.7ff.(アシタ仙の訪問); II, 150.1ff.(四門出遊); II, 159.3ff.(大いなる出家); II, 209.9ff.(%Syaamaka本生); III, 268.5ff.(受戒); III, 328.20ff.(初転法輪); III, 335.10ff.(無我の説法); III, 349.11ff.(不戦の王)である。

 Schneider(1953)は<註32>Mahaavastu III, 418.19-420.2 の Asthisena JaatakaをパーリのA#t#thisena Jaataka (No.403) と比較した。両者はpraakritで書かれた非仏教的なオリジナルから派生 したと見られる。

 Edgerton(1953)の辞書・文法書は<註33>、仏教混淆梵語の語彙と文法の研究において、Mahaavastuを主要な資料の1つに用いて、用例を取った。また彼の読本では<註34>、5つの話をMahaavastuからとりあげ、テキストに校訂を施した。とりあげられた箇所は、Mahaavastu I,359.18-366.8、II,150.1-157.18、III, 328.20-329.15、III, 330.17-333.17、III, 56.6-67.7である。

 Hahlweg(1954)は<註35>Mahaavastuの中にあるMahaagovinda-Suutra (III,197.11-224.9) を、パーリ長部のMahaagovinda-Suttanta (PTS, vol.II, 220-252) と、中央アジア Qyzil から出土した有部のMahaagovinda-Suutraの4断片、さらに漢訳長阿含の中の典尊経 (大正1. 30-34) と、(正量部に属するらしい)大堅固婆羅門縁起経 (大正1. 207-213) と比較した。彼は2本の漢訳の独訳を、パーリ本とMahaavastuのテキストと見開きで対照させており、巻末には中央アジア断片の転写とMahaavastuのMahaagovinda-Suutraの独訳とを付けた。諸本を比較した結果、MahaavastuのMahaagovinda-Suutraと大堅固婆羅門縁起経は一つのグループとして、典尊経・パーリ本・中央アジア断片から成るもう一つのグループと区別された。なお中央アジア断片Mahaagovinda-Suutraについては、さらにSchlingloff(1961)によって<註36>改めて研究がなされた。

 高原信一(1955)は<註37>新たにMahaavastuの地獄品 (I, 4.15-16.7) を和訳した。

 Chatterji-Sen(1957,1960)は<註38>中期インド語の読本として2話をMahaavastuからとりあげ、注解を施した。とりあげられた箇所は、Mahaavastu III, 117.13-121.7(Pitaa-putra-samaagamaの一部)とIII,130.4-132.18(Hastinikaa-jaatakasya parikalpa)である。

 Basak(1960)は<註39>Mahaavastuを政治・経済・社会・宗教の面から取り扱った。

 湯山明(1963)は<註40>MahaavastuI,2.16-4.10を原典批判し、文法的な考察をした。

 水野弘元(1964)は<註41>Mahaavastuの書名、またMahaavastuと仏本行集経との関係、Mahaavastuの内容の配列順序などについて、考察した。

 Chopra(1966)は<註42>MahaavastuのKu%sa-jaatakaを研究した。Mahaavastuには主に韻文でできたKu%sa-jaatakaと、主に散文でできたKu%sa-jaatakaとの、独立した2つのヴァージョンがある。この 2本にパーリのKusa-jaataka (No.531) を加えて比較を行い、三者のヴァージョンの相互の関係と位置を明らかにしようとした。特にMahaavastuの2つのヴァージョン(Mahaavastu II,419.16-496.18とIII, 1.1-27.21)の研究たる第1部においては、ChopraはSenart本テキストに厳密な原 典批判を行い、Senart本の読みを数多く訂正している。原典批判を受けた部分はMahaavastuの両 ヴァージョンを合わせるとSenart本で百ページを越える分量となる。これらの原典批判は将来の新しいMahaavastuの校訂本のための確実な礎となると思われる。

 de Jong(1968)は<註43>Mahaavastu III, 86.3のaasiiyatiの語をosiiyati (= Skt.: avasiidati, Pali: osiidati) と読むことを提案し、さまざまな資料のコンテクストからその意味を確認している。aasiiyatiの語については、先に季羨林(1947)の研究がある<註44>。

 Alsdorf(1968/1969)は<註45>Senartが韻律を見失った2箇所を正しい韻文に回復することにより、それらの箇所のテキストを校訂し直した。直された箇所はMahaavastu I, 2.15-4.10 (nidaana-gaathaa)とIII, 58.18-59.1、61.16-18である。

 高原信一(1968)は<註46>Mahaavastuを含む多数の仏教文献を、十八不共法の項目の順序の違いに着目 して、グループ分けをした。これは高原(1969)の邦文の論文で、十力の論考を加えて再説された。

 湯山明(1968a)は<註47>Mahaavastuの英文のビブリオグラフィーを発表した。さらに湯山(1977-1978) は<註48>Mahaavastuの「書誌学的雑録」を連載し、内外のMahaavastu研究を詳しく紹介した。

 平等通照(1973)の<註49>『印度仏教文学の研究』第2巻は、Mahaavastuについて学会誌に発表した多 くの論文を、まとめて1冊の本にしたものである。その後、平等(1983)はMahaavastuのジャータ カの研究を博士論文としてまとめて、『印度仏教文学の研究』第3巻として公刊した。

 藤村隆淳(1973a)は<註50>カーシャパ仏による授記を伝えるJyotipaala-suutra (Mahaavastu I, 317.4-335.8)を和訳した。

 田久保周誉(1975)は<註51>多くの仏伝を合わせて編纂された仏伝『仏本行集経』の中の、LalitavistaraおよびMahaavastuから借用したと思われる部分を調査した。

 Rahula(1978)は<註52>Mahaavastuの資料的な研究に加えて、社会的・文化的な観点からの研究も行っ た、総合的で大部なMahaavastuの研究書を出版した。

 山崎守一(1979)は<註53>Chopraの原典批判を参照しつつ、Ku%sa-jaataka (Mahaavastu III, 1.1-27.21) を和訳し、言語的な註を付した。

 福井設了(1981-1982)は<註54>4回にわたってDiipa+nkara-vastu (Mahaavastu I,193.13-234.23)を和訳した。また福井(1985)は<註55>Chatra-vastu (Mahaavastu I, 253.1ff.)の和訳の第1回を発表した。

 Harrison(1982)は<註56>、Mahaavastuの世間随順の仏陀観が集中的に語られているMahaavastu I,167.15-170.10の部分を、新たにMahaavastuの4本の写本(DとEの2写本を含む)を用いて校訂して、英訳を行い、さらに仏説内蔵百宝経(大正 No. 807)ならびに同じ経のチベット訳Aarya-Lokaanuvartana naama mahaayaanasuutra(東北 No. 200)の、Mahaavastuとの一致部分を英訳し、比較を行った。このHarrisonの研究は、先に高原信一(1969b)(1969c)が Mahaavastu I,167.15-170.10の韻文部分 と、仏説内蔵百宝経・チベット訳 Lokaanuvartana mahaayaanasuutraとを比較し、両者が 部分的に共通していることを発見したことを受けて、より厳密さを求めてなされたものである。

湯山明(1983)は<註57>Kacchapa-jaataka (Mahaavastu II, 244.1-245.16) の部分のテキストを新たに校合した。そこでMahaavastuのテキストは、Kern刊本Jaatakamaalaaの付録Kacchapa-jaatakaのテキストと対照させられた。JaatakamaalaaのKacchapa-jaatakaは、Kernが彼のJaatakamaalaaの校訂の際に用いた3本の写本のうちパリ写本P(Filliozat 45-46) にのみ有ったもので、 いわゆる仏教梵語で書かれ、Jaatakamaalaaの古典的な梵語とは異質なものであったために、Kern本テキストの付録として巻末に付けられたものである。湯山は、このJaatakamaalaaのP写本とMahaavastuの4本の写本(Senartの用いたBとC写本および2本のネパールから最近入手されたDとE写本)を用いて両ヴァージョンを確定した。Kern本Jaatakamaalaaの方のヴァージョンはMahaavastuからの多くの借用に、Jaatakamaalaaの数節や未知の資料の偈の借用をまじえて作られたものらしい。両ヴァージョンの比較はすでに湯山(1977)で報告された<註58>。

 de Jong(1985)とG. Roth(1985)は<註59>、Mahaavastuの因縁偈の直後(2.13-14)にある有名な文、 aaryamahaasaa#mghikaanaa#m lokottaravaadinaa#m madhyade%sakaanaa#m paa#thena vinayapi#takasya mahaavastuye aadi(中国地方の、聖なる大衆部の説出世部の人々の読誦に依れる、律蔵の始め)における、madhyade%saka(中国地方)の語は誤りであって、madhy'udde%sikaあるいはmadhyodde%sikaの語に訂正すべきであることを指摘した。このmadhy'udde%sikaあるいはmadhyodde%sikaという読みは、大衆部・説出世部に属する他のすべての律蔵梵語文献、またPrasannapadaaにおける言及、ならびにMahaavastuの2本の古写本(DとE)から確認され、疑う余地がない。すると問題になるのはその語の意味である。プトンの仏教史は数箇所において、大衆部の用いた言語はプラークリットやアパブランシャではなく、bar-mar #hdon-paあるいは #hbri+n-du #hdon-paという言語であるという説を伝えているが、このbar-mar #hdon-paあるいは #hbri+n-du #hdon-paというチベット語は、madhyodde%saに対する訳語と見なしうる。すると、madhyodde%saの語は、大衆部の用いた言語の性質か名前であると考えられる。madhyodde%saとは「中間的な形で(聖典を)読み伝えている」という意味であるが、Roth(1985)によればそのような言語は、プラークリットでも古典サンスクリットでもない、両者の中間的な言語、いわゆる混淆梵語を指すと解される。madhyodde%sikaとは、そのような中間的な言語で聖典を誦する人々、つまり大衆部の人々を指す。この語義解釈に従うならば、先のMahaavastu2.13-14の有名な文章は、「(聖典を)中間的な仕方で[言語で]誦する、聖なる大衆部の中の説出世部の人々の、読誦に依れる、律蔵の始め」と訳し直すことができよう。

 上記のHarrison(1982)や湯山明(1983)やde Jong(1985)やRoth(1985)の研究で、Mahaavastuのネパールの古写本DとEを参照することの重要性が確かめられたわけである。これからのMahaavastuの研究はこの2本の写本に基づいて拓かれてゆくものと思われる。D写本は446葉か ら成る西暦1694年に筆写された紙の写本である。E写本は428葉から成る13世紀頃の書体で書かれた貝葉写本である。ともにNGMPPのマイクロフィルムに収められた。

 [日本人の研究としては、以上の他にも、高原信一・藤村隆淳を初めとして、多くのMahaavastuの論考がある<註60>。]

 次のA表は、上の研究史で紹介した、Mahaavastuの部分についてなされた原典批判や翻訳を表 にまとめたものである。

  表A 

 ・    論文      ・  原典批判や翻訳のなされた箇所

  」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

・Leumann-藤田(1933-39)   I, 1.1-4.11, 9.2-33.17(和訳・テキスト)

・荻原−久野(1933-35)     I, 1.1-63.14(和訳)

・Leumann-白石(1952-62)   I, 1.1-193.12(独訳)

・Alsdorf(1968/69)      I, 2.15-4.10(独訳・テキスト)

・Franke(1929, 30)       I, 4.15-45.16(独訳)
・高原(1955)        I, 4.15-16.7(和訳)

・渡辺(1933)         I, 9.2-16.7(和訳・テキスト)

・Harrison(1982)       I, 167.15-170.10(英訳・テキスト)

・Thomas(1950)       I, 168.4ff., 283.7ff., 290.11ff.(英訳)

・福井(1981-82)        I, 193.13-234.23(和訳)

・福井(1985)         I, 253.1-263.8(和訳)

・藤村(1973)         I, 317.4-335.8(和訳)

・Edgerton(1953)       I, 359.18-366.8(テキスト)

 」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

・Thomas(1950)  II, 30.7ff., 150.1ff., 159.3ff., 209.9ff(英訳) 

・Leumann-渡辺(1970)  II, 83.13-121.14(独訳)

・Edgerton(1953)   II, 150.1-157.18(テキスト)

・Chopra(1966)   II, 460.6-496.18(テキスト)

 」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」 

・Chopra(1966)   III, 1.1-27.21(テキスト)

・山崎(1979)    III, 1.1-27.21(和訳)

・季羨林(1943)    III, 33.8-41.11(独訳)

・Edgerton(1953)   III, 56.6ff., 328.20ff., 330.17ff.(テキスト)

・Alsdorf(1968/69)     III, 58.18-59.1, 61.16-18(独訳・テキスト)

・Chatterji-Sen(1957, 60)  III, 117.13ff., 130.4ff.(テキスト)

・Hahlweg(1974)   III, 197.11-224.9(独訳)

・Thomas(1950)   III, 268.5ff., 328.20ff., 335.10ff., 349.11ff.(英訳)

 」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

Skt. MSS.:

SA 9 [→A];

Filliozat 87-88-89 [→B], 90-91-92 [→N];

Bendall Add.1339 [→C];

SBLN p.115;

Cowell・Eggeling 9 [→L];

Bir 150;

Sanada 609;

Matsunami 297;

Goshima・Noguchi 83;

Nagao p.13;

BSP ca129(2-165), t#r 236(2-166) = NGMPP B99/3;

IASWR MBB-II-154, MBB-3-22;

Takaoka A63, CA47, CH51;

NGMPP-Card E562/14-563/1 [→E], D43/3 [→D], B98/14 (=ca127) [256 fols.], B99/3, C122/6-123/1 [341fols.], D64/6 [fol. 49-67], E1160/3 [145 fols.], E1364/7 [348 fols.]

カタログ外の写本: I. P. Minayeff MS.[→M]; Biblioth#eque Nationale No.1544, No.1748

MSS. of Parts.

Diipa#mkaravastu [I, 54.10-248.4] : Matsunami 173

Diipa#mkaravastu : IASWR MBB-I-94; NGMPP-Card A135/2(= ca2543), A1281/12(= pa239), C18/4, D75/39, H380/6

Diipa#mkarabuddha(?): NGMPP-Card E392/4

Da%sabhuumika (abridged) and Diipa#mkaravastu : Filliozat 58

Kolikaanaam utpatti [I, 348.8-355.14] : Matsunami 266-V-1

Maayaadi-sapta-kanyaa-vivaaha-kathaa [I, 355.15-357.4] : Matsunami 266-V-2

Ku%sajaataka : SBLN p.110; ASB p.245

Ku%sajaataka [III, 26.18-27.21] : Goshima・Noguchi 22

  

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