戻る


この、インターネットで公開する文面は、雑誌に発表した文面と完全に一致しています。誤記や誤植があったとしても、その誤りも歴史の一部ですから、誤りのままここで再現することにしました。

雑誌におけるページづけを示すために【 】の記号を使いました。例えば、【15】は、この記号より以下の文面が該当雑誌の中で、第15頁にあることを意味します。次に【16】の記号が現れるまでの文面全部が、第15頁です。また、【一】とあるのは縦書きの論文の第1ページであり、【1】とあるのは横書きの論文の第1ページを意味しています。横書きの場合、左へページが進むので、雑誌においてはページ番号が次第に若返ってゆく現象が起こります。例えば、【445】の次のページは【444】になります。

 

サンスクリットの特殊文字は次のように変換しました:

長音のaはaa, 長音のiはii、長音のuはuu。母音のr は#r、母音のlは#lです。

子音は:

k, kh, g, gh, +n
c, ch, j, jh, %n
#t, #th, #d, #dh, #n
t, th, d, dh, n
p, ph, b, bh, m
y, r, l, v
%s, #s, s
h

Visargaのhは#h、Anusvaaraのmは#mです。

次に、ヨーロッパ語の表記について:

ウムラートの付くa, i, u, e, oはそれぞれ%a, %i, %u, %e, %oとしました。

アクサン・テギュの付くe は+eとしました。

アクサン・シルコンフレックス(^)の付くa, i, u, e, oは$a, $i, $u, $e, $oとしました。

アクサン・グラーヴ(`)の付くa, e, u は#a, #e, #uとしました。

セディーユのついたcは、サンスクリットの口蓋音のsの代用として用いられるため、%sと表記しました。 


著者:岡野潔

論文題名:「インド正量部のコスモロジー文献、立世阿毘曇論」

発表雑誌:『中央学術研究所紀要』27号 (1998年12月), pp. 55-91


【五五】

      

インド正量部のコスモロジー文献、立世阿毘曇論

  岡野 潔

  はじめに

立世阿毘曇論(大正 No. 1644)は、インド小乗仏教のコスモロジー(歴史的宇宙論・地理的世界観)を詳しく語るアビダルマ論書である。アビダルマ論書を扱う際には、なによりも所属部派の確定が重要になる。アビダルマ学は、仏陀の言葉である阿含に基づき、阿含の経の内容を分析・整理・解釈し、すべての教理を一つの体系の中に包摂することをめざして成立したものであるが、部派分裂後に生じた諸部派が伝える阿含伝承が同一ではなく、教理の解釈や問題意識も部派ごとに違っていたために、論師たちによって纏められたアビダルマにはそれぞれの部派の固有性が明確に出る結果となった。仏教コスモロジー論書はそのアビダルマ学の一分野として、それぞれの部派の内部における長い期間の知識の蓄積の結果として生まれたものである。体系的叙述のコスモロジー文献は、遅くとも紀元後二世紀頃までに、説一切有部・法蔵部・正量部などの部派で競い合うようにして積極的に形成された。体系的に編集されたコスモロジー文献は、世記経や(世記経の原始的な形態に他ならぬ)増一阿含七日品の経に見られる如く、初めはアビダルマ文献としてではなく、阿含の一経として---- アッガンニャ経や七日経などの宇宙論的な記述の素材をもつ複数の経が結合し増広することで、いわば疑似的な阿含経として再編集されて---- 成長したもので【五六】あろうが、やがて有部や正量部では仏説に近い権威をもつアビダルマ文献として認められた。法蔵部では仏説と認められ正式に長阿含に編入された。そのように並行的に作られた諸部派のコスモロジー文献は、所属部派の阿含伝承と教理の伝統の違いによってかなりの相違が生じた。

アビダルマとしてのコスモロジー文献、立世阿毘曇論は、内容を検討した諸学者によって少なくとも説一切有部のものではないらしいことが指摘されてきた(1)。しかしその所属部派はこれまで不明であった。

私のこの論文の目的はただ一つ、立世阿毘曇論が正量部に所属することを決定的に証明することにある。

  

漢訳の立世阿毘曇論(*Lokapraj%napty-abhidharma-%saatra 略号:立世)は西暦五五九年に ウッジェーニー出身の学僧・真諦三蔵によって、南海経由で中国に自ら将来した大量の梵本の中にあったものであろう原語の(梵語か中期インド語かは不明であるが)貝葉写本に基づき、漢訳されたものである。梵本は現代まで伝わらず、チベット語の翻訳もなされず、漢訳だけで伝わる作品とみなされていたが、一九三九年にポール・ミュス Paul Mus は(2)、ローカパンニャッティ Lokapa%n%natti ----訳すと『世間施設』----というビルマ・タイに伝承される文献が、パーリ語版の立世にあたることを指摘した。この指摘はさらに、ローカパンニャッティの校訂者である ユジェーヌ・ドゥニ Eug#ene Denis によって再確認された(3)。パーリ語版は、明らかに漢訳の立世からの重訳ではなく、インドからビルマに伝わった立世の原語のテキストが、抄本として簡略化された形でパーリ語に訳され、同時に付加部分が加えられるなどの再編集を受けて、十一〜十二世紀頃までに成立したものであるらしい。漢訳の立世阿毘曇論と比較して、このパーリ語版は伝承の信頼性がはるかに劣る。その理由として、パーリ語に翻訳・編集した際に、かなり恣意的に全体が【五七】簡略化されたらしいこと、翻訳の態度が杜撰であること、ビルマのパーリ上座部の影響があり、その伝統に合致するように書き変えられた箇所もあること、構文などの点でパーリ語としての作文がうまいとはいえないこと、 写本の数が少ないこと、しかもどの写本も、筆写が信頼できない写本に由来する、同系統の新しい写本ばかりであること、があげられよう。

一方、漢訳の立世のテキストは、その翻訳年が西暦五五九年であってパーリ語版の成立よりもはるかに古く、しかも真諦という中国の訳経史上でも稀なる最高の学殖をもつ翻訳家が訳していることから、信頼性が極めて高く、 ユジェーヌ・ドゥニも漢訳立世の伝承としての価値を高く評価した。ドゥニがローカパンニャッティ(以下、略号としてLPと表示)の校訂作業において、写本伝承の拙劣さから復元不可能と思われたテキストを力ずくで復元し書き改める荒技を行うことを出来たのは、漢訳の立世の文面を常に彼の復元作業の根拠にすることができたからである。失われたインドの原典を少なくとも意味においては明確に忠実に伝えている点で、漢訳はLPよりも遥かに勝っている。ただし漢訳の立世のテキストには、一箇所だけ、中国の筆写生が写経紙の頁の順序を間違えたために伝承の途中で起こったらしい、大きな文面上の混乱がある(4)。このことはLPと比較してみて明らかである。LPの伝承が漢訳よりも勝れている点は、インド語内における翻訳であることであり、失われた原典の文面をパーリ語の単語一つ一つが髣髴とさせる。

  

立世ならびにそのパーリ版LP(の後世の付加部分 sa#msaara-gati-vibhaaga を除いた中核部分)は、ともにインドに存在したオリジナル原典の伝承へと遡るものであるが、その原典の伝承が正量部に所属していたことを推理する【五八】ことは、新たにネパールから学界未知の正量部の文献が梵語写本として発見されなかったならば、全く不可能であったろう。その文献とは、カトマンドゥ地域に伝えられてきたマハー・サンヴァルタニー・カター Mahaasa#mvartaniikathaa-----訳せば『世界の<生成と>破壊の大いなる法話』(5)-----という作品(略号 MSK)である。この作品は私が知る限りで六写本が現存する。私はそのうち五本のネパール写本の(NGMPPが撮影した) マイクロフィルムを入手し、残る一本の写本も、ボン大学が所有するコピーを閲覧することを得て、それらの写本から校訂テキストを作成した。私のテキスト校訂の作業は、マールブルクのミヒャエル・ハーン Michael Hahn 教授の助力を得て昨年夏に終了し、独訳と序論を添えてまもなく出版される予定である(6)

MSKの内容の大部分は、われわれの世界の発生から消滅までの出来事を物語る歴史的コスモロジーである。第一章では釈尊の仏伝が描かれる。これは全体の枠物語の機能をもつ。第二章以降はその仏陀による、世界の生成と破壊の大いなる出来事についての説法の内容である。サルバラクシタは第二章に成劫の物語、第三章に住劫前半の「幸福の時代」の物語、第四章に住劫後半の「幸福と不幸の混じった時代」の物語、第五章に壊劫の物語を、仏陀の説法として語る。第六章では空劫その他が説明された後に、章の最後に説法の終了と釈尊の入滅とが描かれ、全体の枠構造を閉じてMSKは終了する。

MSKは完璧に正しい古典梵語で書かれた美文体芸術作品(カーヴィア)であるが、カーヴィアというものは大体何らかの種本を脚色して製作されるものである。MSKの詩の大部分が種本として基づいた作品は幸運にもチベット大蔵経テンギュル中に保存されている。それは十二世紀のダシャバラ・シュリーミトラ作の論書『有為無為決択』('dus byas da+n 'dus ma byas rnam par +nes pa) の第八章の中に引用文として存在している作品である(7)。引用といっても十葉にも及ぶ極めて長いもので、引用された作品の大部分にあたるのではないかと思われる。ここには成劫【五九】の初めから住劫・滅劫を経て空劫に至るまでの、完結した記述がある。ダシャバラ・シュリーミトラは、引用したこの正量部文献の名前を明らかにしていないが、引用の冒頭に「聖なる正量部の伝承聖典 (lu+n)によって、次のように(教義が)確定された」(§1)とあるので、正量部の文献であることだけは確実である。この文献については漢訳もなく、梵文写本も今のところ発見されていないので、文献名が将来判明する時までとりあえずこの文献を私は文献Xと呼ぶことにする。文献Xは、サルヴァラクシタによって仏説、つまり仏陀自身によって説かれた作品とみなされているようであるが(8)、文体から判断するとアビダルマ文献の一つのようである。このことは奇妙ではない。真諦が訳した立世も、正式名称として「仏説立世阿毘曇論」と伝えられているから、正量部では有部の態度の如く、仏陀が説かれたものを仏弟子が編纂したという意味付けで、アビダルマ文献の一部を仏説であると考えていたのではないだろうか。文献Xには仏滅後八百年代の結集のことも記してあるから、文献Xの実際上の編集は紀元後五世紀以降であろう。このような遅い成立であるが、文献Xの作者は(直接の編集者は別に存在するとしても間接的には)仏陀であると見なされたのであろう。

文献XとMSKとの関係は、一方は聖典で他方は芸術文学作品という違いはあるが、上述のとおり種本と脚色本の関係にあり、従って内容的には大体同じである。両書を比較してみると、MSKの作者がいかに文献Xに忠実に、しかも舌を巻くような見事さで芸術化を実現したかがわかる。サルヴァラクシタの意図は、内容は全く聖なる伝承に従いつつ、しかも韻律の器に最大限の文学的装飾を盛り込むことであった。文法家であったことも知られるサルヴァラクシタは写本のコロフォンに記された「大詩人」の称号に恥じない、詩の名手であったに違いない。文献Xの発見によって詩人の文学的創造の苦心の跡をたどることが可能になった。作品と種本の両方のテキストが保存されていることは、梵文学の研究者にとって、梵語詩の製作手法を知る上での好適なる見本となる。
【六〇】

  

さて、MSKと文献Xとが正量部に所属することは、文献Xの引用の冒頭に「聖なる正量部の伝承聖典 (luゥ)によって、次のように(教義が)確定された」という文がある事実以外に、両方のテキストが(MSKでは第四章二節において、文献Xでは§138〜143(9)において)「正量部の五回の結集」の歴史を報告していることからも確実である。このようにMSKと文献Xが正量部の文献であることについては作品自身の証言により、全く疑う理由が見あたらない。一方ではMSKと文献Xが、他方では立世とLPが、それぞれ伝承として同系統(本来は同一の作品)であることは、前二者は私の校訂本、後二者についてはユジェーヌ・ドゥニの校訂時の研究によって、すでに確認済みである。したがって、立世とLPが正量部所属であるならば、現存する正量部のコスモロジー資料には、文献Xの系統の二資料と、立世の系統の二資料とがあることになる。

これら二系統の伝承が、伝承内容において重なり合う点をみつけること、これが私の立証において最も重要な課題となる。その二系統の資料の合致点は、部派を確認する証拠としては、同時に有部などの他部派の教理との相違点でなければならない。従って、比較作業の焦点は、具体的には次の二つの条件を満たしている箇所でなければならない:

 (1) 正量部文献の或る箇所の記述が、他の部派の文献のパラレルな箇所の記述と比較してみてはっきり異なること。伝統的な相違点であることが確認できること。(ここで他部派の文献とは何を指すか、具体的にいうと、有部に所属するものとして、倶舎論や大毘婆沙論、根本有部に属するものとしてチベット訳施設論中の世間施設、法蔵部の文献として漢訳の世記経、起世経、起世因本経、大樓炭経がある。漢訳長阿含は【六一】法蔵部所属であるというのが学会の定説であるし、私もそれを支持する論拠を見つけているので、世記経は法蔵部と見なして問題がないと思う。さらに、起世経、起世因本経、大樓炭経は内容的に見て長阿含世記経と同一の部派伝承上に立つと見てよい。従って、これらも法蔵部に属することになる。)

 (2) 他の部派の伝承とは異なるまさしくその相違点において、立世(と立世のパーリ版)は、文献X・MSKと共通していること。

このような(1)と(2)の二条件を満たす事例を沢山集めて、列挙してゆけばよい。

  

初めにあげるのは、立世とそのパーリ版の部派所属の確認において、最も力強い証拠となるものである。それは、サルヴァラクシタがMSKの第五章二節の第七偈から第十五偈までの九偈、さらに第五章四節の第一偈から第十一偈までの十一偈の箇所で見せた、正量部の聖典-----恐らく七日経にあたる経----- の一節の文をベースにした言葉遊びである。結論を先に述べるが、サルヴァラクシタが言葉遊びのベースにした文とは立世とLPに有る(もともと正量部伝承の七日経から取ったと思われる)文章と全く同じであって、LP のパーリ語文 (I, p.196) によれば次の文である:eva#m (1) aniccaa bhikkhave sa+nkhaaraa eva#m (2) adhuvaa bhikkhave sa+nkhaaraa eva#m (3) anassaasikaa bhikkhave sa+nkhaaraa (4) ittaraa (5) bhejjakaa (6) jajjaraa (7) ataa#naa (8) ale#naa (9) asara#naa asara#nibhuutaa yaava%n c' ida#m bhikkhave, (10) alam eva sabbasa+nkhaaresu nibbinditu#m, (11) ala#m virajjitu#m, ala#m vimuccitu#m.  訳:「比丘らよ、諸行(一切の現象)はかく(1) 無常であり、かく(2) 堅固でないのが、比丘らよ、諸行であり、かく(3) 信頼しかねるものが、比丘らよ、諸行であり、また(4) 一時的なもので、(5) 壊れうるものであり、(6) 滅びゆくものであり、(7) 保護処【六二】でなく(8) 避難処でなく(9) 依り処ではなきものであり、無庇護者たるものであり、それゆえ簡単にいえば、比丘らよ、(10) 一切の諸行においてうんざりすべきであり、(11) <それに>興味を失うべきであり、<それを>放棄すべきである。」

このLPの伝える文は、立世の伝承する漢訳の文とよく一致しているから、LPと立世の原典にもほぼ同文のものがあったのだろう。その文に対して、サルヴァラクシタは次のような文学遊戯の技法を使った。七日経で(定型文として)繰り返される、この有名な一文を単語にばらばらに切り分けて、先のパーリ文と和訳で私が丸カッコに入れた数字が示すように、十一の語句のリストを作る。そしてその切り分けた語句を上から順に一つづつ(ある時には二つまとめて)取っては、MSKの作者はそれぞれ一偈を作成する。こうして第五章四節の第一偈から第十一偈までの箇所では、十一の語句から合計十一の偈を作り、第五章二節の第七偈から第十五偈までの箇所では、同じ十一の語句から合計九偈を作る。MSKのこれらの偈から逆に、聖典の元の原文を復元することが可能である。それによりサルヴァラクシタが基づいた文章は、現在LPおよび立世に保存されている文章とほぼ同一であると確認できる。

MSKという作品の源泉は大部分が文献Xであるが、この、第五章二節と第五章四節の箇所では、文献Xに相当箇所がないから、サルヴァラクシタが別の正量部の資料を用いたことが確実である。その中にこの言葉遊びに使った文があったのである。その別の資料とは何か。本来的な源泉として推定できるのは七日経にあたる経であるが、二次的な源泉としては立世の原典である可能性もありうる。LPおよび立世には阿含のパッチワークともいうべき性格があり、明らかに正量部が伝持した七日経からの抜粋で出来ている箇所もあるが、その箇所にある文章こそが、先に引用した文であり、サルヴァラクシタの言葉遊びと一致しているのである。該当文は他部派の伝承では大きく異なる。有部の七日経 (saptasuuryodayasuutra)や、パーリ上座部が伝持した七日経に相当する経にも、何度も繰り返される上記の文に相当する文があるが、例えばパーリ語の伝承ではそれは aniccaa bhikkhave sa+nkhaaraa, adhuvaa【六三】bhikkhave sa+nkhaaraa, anassaasikaa bhikkhave sa+nkhaaraa, yaava%n c' ida#m bhikkhave alam eva sabbasa+nkhaaresu nibbinditu#m ala#m virajjitu#m ala#m vimuccitu#m (AN, IV, p.100) という文章になっていて、MSK・LP・立世の伝承と比べるとずっと短く、明確に異なることがわかる。またLPや立世に伝わる、先述の定形文が有部伝承の文と異なることは、中阿含経の七日経 第八(428c9-11 と 429b4-7)や薩鉢多酥哩踰捺野経(811c23-25 と812c1-3)にある相当文面との相違から確認することができる。法蔵部の世記経などの対応文も異なる(世記経 137c12-14; 起世経 355a5-7; 起世因本経, 410a11-13; 大樓炭経, 302c28-303a1)。私のMSKの校訂本に既に説明があるので (10)、紙幅の関係上これ以上の詳説は避けるが、このように定型文が見事に一致することは部派伝承を確定する上で、大きな説得力をもつといえよう。

  

サルヴァラクシタが正量部の伝承する七日経、あるいは立世の原本を直接利用したと思われる記述は、他の箇所にも見出される。それは水輪の消滅の場面における譬喩である。他の文献には見られない譬喩が立世(223b14-18)・LP(I, 197)・MSK(5.3.5)にあり、互いによく似ている。七日経は水輪の消滅も説いているから、もともと正量部伝承の七日経にあった譬喩である可能性がある。その譬喩は文献Xにはないが、MSKにはあることから、MSKの作者が立世、あるいは立世のパッチワークの一つの種本(ここでは七日経か)を、直接読んでいた証拠となるものである。その譬喩は立世のテキストによれば次の如くである:

  世界の大地(11)は焼熱して焔を出し、一火性と成る。其の熱勢を以て下の水輪を吸い、譬えば銅槃の火に焼熱せらるるを浅水中に置かば、水を吸い、都て盡くすが如く、世界の大地の一火性と成りて下の水輪を吸うも【六四】亦復、是の如し。

これに対応する立世のパーリ版の文章は次のようである(12): 

  この赤熱せられ赤赤と燃え火と燃える大地は、最下にあった水の集合体(=水輪)を消滅させる。譬えば火によりて赤熱せられ赤赤と燃え火と燃える真鍮の器(鍋)が、少しの水の中に置かれたなら、その置かれたる水を消滅させるであろう、そのようにこの赤熱せられ赤赤と燃え火と燃える大地は、最下にあった水の集合体を消滅させる。

一方MSK (5.3.5) のテキストは次の通り(13)

  熱せられた真鍮製の器(鍋)が少量の水を<吸い込むように見える>が如く、熱せられた大地は<その>下に<位置する>水輪を飲みつつ、その<水輪という>飲み物を完全に飲み尽くすまで、満足するに至らない。

以上の三テキストを比較しても、一方では聖典、他方ではカーヴィアという違いはあるが、それを超えて、MSKと立世の伝承内容の類似性は否定しがたい。

サルヴァラクシタが直接的に立世の原本から利用したせよ、そうでないにせよ-----該当文は本来は正量部の七日経にあったものではないかと推定できるが------どちらにせよ、得られる結論は変わらない。MSKが直接の源泉であるはずの文献Xをとびこえて、正量部の別の資料を用いた箇所が、現存する立世の伝承と類似する記述を含んでいたということが大事なのである。それは立世の伝承が正量部であることの一証拠となる。
【六五】

  

次に、立世と立世のパーリ版が、MSK・文献Xと同一の部派伝承である証拠として、実にユニークな証拠となるのが、立世とLPとMSKとに共通して見られる、現在の劫である第九劫の終末まであと約七百年という、仏教の他部派には見られない、正量部独自の切迫感のあるエスカトロジー(終末論的世界観)である。まず、MSKを見てみると、第四章二節(4.2.16〜18)の箇所において、次のように述べられている:

  さらに<仏滅後>第八の百の年に、無垢の輝きをもつ牟尼たちであるブーティとブッダミトラが、あたかも月と太陽とがこの世界を輝かせるが如く、牟尼の王(仏陀)の言葉を明らかにした。(4.2.16)
  彼ら二人は語った:<イネの>殻の出現をもち、悩まされつづけたる、この劫は第九番目であった。それ(第九劫)にとって、<人の>肉体の劣化する七百年のみが今や残されている。(4.2.17)
  ゴマ・さとうきび・凝乳などにおいて、それぞれゴマ油・さとうきび汁・バターオイルなどの精髄液<の出現>が現在ある。しかし、まもなく、カリ・ユガの残りという、夜の魔によって精髄液を吸われたそれらの形骸だけが残るだろう。(4.2.18)

このMSKの予言的記述に対応するのが、立世(215b21-24)の次の文章である:

  是の二十小劫起成しおわって住すとせば、幾多か既に過ぎ幾多か未だ過ぎざるやというに、八小劫はすでに過ぎ、十一小劫は未だ来たらず。第九の一劫は現在未だ尽きず。此の第九の一劫は幾多かすでに過ぎ、幾多か未だ来たらざるかというに、未来は定めて六百九十年を余して在る(続いて、次の細註の一文がある:「梁末已卯の年に此の経を翻度するを断りと為す」)。

【六六】 この立世の文章に対し、立世のパーリ版の対応箇所(I, 177)では、次のように少し短いがほぼ同じ文章になっている(14)

  二十小劫の間、成立した世界は持続する。八劫が過ぎ去った。十一劫が<未来に>残されている。第九番目にこの劫は位置する。詳細にいえば、それ(第九劫)にとって七百年が残されている。

こうして、MSKではあと七百年、立世ではあと六九〇年、LPではあと七百年と、いずれもほぼ近い数字をあげるわけであるが、MSK 4.2.17偈の文脈では、この文はブーティとブッダミトラの予言の一部としてあげられているように読めることに注意すべきである。つまり「七百年のみ」とは、ブーティとブッダミトラが予言した時点から数えて七百年のみという意味であると解釈できる。MSKの種本である文献Xはどう記述しているであろうか。文献XはここでMSKと全く同じ前後の文脈をもち、特にMSKの4.2.17偈の前半の「彼ら二人は語った:<イネの>殻の出現をもち、悩まされつづけたる、この劫は第九番目であった」の文と全く同様の対応文をもっているが、MSKの4.2.17偈の後半の「それ(第九劫)にとって、<人の>肉体の劣化する七百年のみが今や残されている」という文にあたるチベット文は、欠けている。すなわち、文献Xの該当文(§144〜146)は、次のごとくである。

  如来の涅槃後、第八百年に、ブーティカとブッダミトラによりて、かの部派の諸伝承(lu+n rnams 阿含)が結集された。これが正量部の五回の法結集と呼ばれる。ブーティカとブッダミトラの彼ら二人によって、『これが殻の出現以来、展開した(経過した)第九の劫である』と説かれた。<彼らの言葉の>主要な意味(要点)が語られるべきであるなら----現在に関していえば、ゴマ・さとうきび・凝乳などにおいて、それぞれコマ油・<さとうきび>汁・バターオイルなどの精髄液が、とてもわずかだが生じる。ゴマ<油>などは、衆生のもつ<わずかな>福分の力のおかげで現在も出現していることが、知られるべきである。

【六七】 なぜ文献Xの脚色であるはずのMSKにこの「七百年のみ」という重要な予言があるのに、文献Xではその対応文が欠けているのか。文献Xをダシャバラシュリーミトラが引用した時(十二世紀)に予言の七百年が過ぎようとしていたから、当該のその文章は不適切であるとして、当時いつの間にか削られていたのか、それとも、正量部の伝承を知悉するサルヴァラクシタがMSKの製作においてわざと補った言葉であるのか、どちらかの可能性が考えられる。もし後者の可能性をとって「それ(第九劫)にとって、<人の>肉体の劣化する七百年のみが今や残されている」というMSK 4.2.17偈の後半の文章を、サルヴァラクシタの感想と捉えるならば、MSKの執筆の時点(十二世紀)から数えて七百年であると解釈する必要が出てくるが、そうすると、MSKのブーティ(文献Xによればブーティカ)とブッダミトラの言葉には4.2.17偈の前半の「この劫は第九劫なのだ」という、短く当たり前の発言しか残されないことになり、それは本当らしくない。わざわざ二人の名前を挙げてまで述べる内容とは思えないからである。これだけの発言内容なら、有部等の他部派でも周知のことである。しかも次の4.2.18偈もブーティとブッダミトラの言葉の紹介が続いているとみることができるから、MSK 4.2.17偈の後半の言葉もその発言に含めて解釈するのが自然であろう。しかし、そう結論づける前に考えねばならない別の疑問点がある:MSKの「あと七百年のみ」という言葉が、もしサルヴァラクシタの感想ではなく、ブーティとブッダミトラの予言の一部であるなら、なぜ仏滅後第八百年代に第五回目の結集を主宰したブーティとブッダミトラの時代よりも遥かに古く成立した文献であるはずの立世とLPにも、それと同様の予言が述べられているのであろうか。ブーティとブッダミトラの予言の言葉だけが独り歩きして、立世とLPの文中にわざわざ後代に付加された可能性もあるから、結論を出すのは簡単ではない。仏教書には珍しい、このような予言の文は、もともと後代に付加された性質のものであることは疑いないからである。世界があと数百年で劫末を迎えるという、他部派に見られない奇妙な予言は、誰か---聖サンミタ【六八】か、あるいはブーティとブッダミトラか---有名なカリスマ性をもった高僧が出て、結集の場ではっきりと断定することで、初めて正量部の正式の教義となりえたものではなかったか。ブーティとブッダミトラが仏滅後第八百年の人であると見なされていたことを考えると、劫末は仏滅後のちょうど千五百年後(八百年プラス七百年)であるという教理がこの予言の背後にあったのかもしれない。私はブーティとブッダミトラのような高僧の予言の言葉として該当文を解釈するのが、別の視点、つまり正量部の奇跡的な教団勢力拡大という歴史的文脈から見た時に、自然であると思う。MSKによれば、ブーティとブッダミトラの予言がなされたのが聖サンミタの第四回結集から百年後の第五回目の結集の時で、「仏滅より第八百年」であるから紀元後五世紀頃であろう。このころから正量部の驚異的な躍進が始まる。正量部への熱狂的な改宗運動が全インドに広がってゆく。玄奘がインドを訪れた時には正量部はすでに全インドの仏教徒の三分の一以上を自部派に呑み込んでいた。カリスマ的な高僧の指導の下に、教義に大きな革新があって初めてこのようなインド支配がなしとげられたのであろう。立世を訳した真諦はアヴァンティ地方のウッジャイニーに生まれ、ヴァラビーの大学で学んでいるが、両都市とも正量部勢力の中心地である。真諦は正量部の具足戒を受けて僧になったらしく、晩年に正量部律の解説書である『律二十二明了論』 (大正 No. 1461) を訳して注釈をしるした。真諦は西暦四九九年の生まれであり、正量部の改革者ブーティとブッダミトラから一世紀ほど後の人ではないかと思われる。それを考えれば、彼が訳した漢訳の原本にブーティとブッダミトラの予言がすでに付加されていたとしてもおかしくはない。なお、立世の細註の指示に従えば、立世のあと六百九十年という数字は、真諦による翻訳の年から数え始めるべきであるが、細註で「梁末」とわざわざ時代を示しているところから判断するに、この細註は真諦がつけたものではなく、遥か後代になってつけられたものである可能性があり、真諦の翻訳の時点から年を数えるべきものとする細註の解釈が、はたして真諦が「六百九十年」と翻訳した時の彼自身の【六九】意見であったのかどうかは疑問が残る。というのは、この六百九十年という言葉は、LPの伝承がまさしく同じ文脈・文章の中で伝えている七百年という数字を、真諦か弟子か筆写生がすこし手直しした翻訳にすぎない可能性が大だからである。恐らく真諦が手にした立世のインド語の原本にも七百年とあったのではないか。いつの時点から数えて七百年であるのかが、立世のパーリ版には記されていないが、そのように七百年と記された立世の原本の写本が六世紀には流布していたのではないか。

七百年という予言の出所がどこにあるかは、乏しい文献の上からでは確実にはつきとめられないが、どうやら正量部の改革運動と関係がありそうである。真諦の翻訳がなされた西暦五五九年以前に正量部がかくも切迫した時代的危機意識・終末思想をもっていたことは確実である。正量部は宇宙クロノロジーに対する関心が他の部派よりも強く、文献XやMSKのような、アビダルマの宇宙論を再整理して詳細に扱った作品をこの部派が製作した理由がこれでわかる。それは時代への強烈な危機意識から生まれたものだったのである。正量部の後期インドにおける顕著な勢力の拡大はこのエスカトロジーによるのではないかとも思われる。正量部の思想的特徴といえば、誰もがプドガラ説を思い浮かべるが、プドガラ説だけを看板にしてあれだけの改宗運動がなしえたとは思えない。というのは、同じプドガラ説を掲げる犢子部は同じ頃に没落しているからである。正量部の驚異的な勢力拡大の背後には何か新興宗教的な要素がからんでいると見るべきである。私見を述べれば、立世が伝える正量部特有の劫末の記述がその秘密を解く鍵になるのではないかと思う。その記述は次の通りである(15)

  時に一人有りて閻浮堤の内の男女を合集し、唯、一萬を餘して留めて當来の人種と為す。是の時中に於いて皆、非法を行ずるも、唯、此の萬人のみ能く善行を持し、諸の善鬼神は人種をして断絶せざらしめむと欲するが故に、是らの人を擁護し、好滋味を以て其の毛孔に入らしむ。

【七〇】 この記述によれば、劫末にすべての人類が滅びるわけではない。一人の(教祖らしい予言者の)もとに、世界中から一万あまりの善男善女が集結し、その善人一万が人類の種として選ばれて生き残ることが出来る、とする。悪人は全て滅び、鬼神に護られながら劫末を生き残った善人一万人にとって、未来に待ち受けているのは、次の劫の開始と共に始まる、あらゆる人類にとって限りなく幸福なる時代、至福の時代である。この天国的な未来への信仰がある点で、正量部の危機的な末世観は、単純なる悲観的運命論ではなく、宗教的な希望の原理となる。五、六世紀以降の正量部の熱狂的な人気の背景には、生き残り一万人の中に入ることをめざした信者団体の折伏運動があったのではないかと私は考える。一方でハルマゲドンを予言しながら、他方で信者の生き残りと新時代の到来を宣伝する、二十世紀末の新興宗教の勢力拡大のための戦略を何やら思いださせる。ノアの箱船のような不思議な救済の予言と結びついたこのユニークな終末思想が、全インドに波及した正量部の運動の最も特徴的な点であったと考えられる。もともと本拠地が西インドにあった正量部は恐らく西アジアからのイラン的宗教の影響を受けていたのではないだろうか。仏教の中で予言者型終末論の宗教の要素が増大したのは、外からの影響であろう。異民族の武力侵入や異国との商業的交渉で徐々に培われた西インドの新しい精神的土壌の中で、待ち望んでいた予言者的なタイプの高僧が正量部の内部で出現し、第九劫はあと七百年でおわるということを----具体的には、ゴマ・さとうきび・凝乳などから、コマ油・<さとうきび>汁・バターオイルなどの精髄液も取れなくなり、飢餓の故に人類の殆どが滅びに至るということを----予言したのではないだろうか。この第九劫は、小三災の中でも主に飢餓が中心的な役割を果たすことで終末を迎えるということは、正量部ばかりでなく有部でも正式見解として説かれたが、有部は正量部ほど終末の時を間近に見ていない。想像するに、当時のインドには大きな飢餓があいつぎ、多くの民衆が正量部のその切迫した終末観に共感したのではないだろうか(16)。憶測をたくましくするならば当時の正量部の人気の背景は【七一】そのように考えられよう。

  

次は、宇宙論の骨組みにおける一致点である。正量部は有部・法蔵部とは異なる独自のコスモロジーの教義をもつが、有部の教義とは異なるその点において、立世がMSK・文献Xと一致するならば、それは立世がMSK等と同一の部派に属するよい証拠となる。まずコスモロジーの基本的教義を検討する。

正量部は成住壊空の各時代に二十劫を割り当てる点で、宇宙史の理論的な骨組みは他部派と同じであるといえるが、さらにその各時代の二十劫の中身の内訳・明細をみてゆくと、他部派との教理の違いが明確に出てくる。まず文献Xの§204-210 にある(17)成劫・住劫・壊劫の二十劫の内訳の部分を和訳してみよう(なお< >の中の語は、私が訳文に補った説明である):

  ブラフマー神は<初めの>十劫の間独り住する。彼の侍者たちの住処は一劫で形成された。<その後>ブラフマ・カーイカ天から下はヤーマ天に至るまで、それぞれ<の天の住処>は<第十二劫から第十七劫まで>各一劫づつかかって<順に>出現する。大地、山やその他は<第十八劫の>一劫で形成された。自ら光を放つ者たち(原=人間)は<第十九と第二十劫の>二劫かかって形成された。<こうして>太陽の誕生の時に至る。かように成劫が<全部で>二十劫<経過する>。
  <住劫が始まって>地味と、地餅と、林<藤>と、稲<の時代がある>。これらの<食物>は幸福の状態<の時代に属する>。<それは>八劫であり、残りの<十二>劫は始終、幸福と不幸<の状態>となる。 <稲の>殻の出現などは、<第九劫以降の>十二劫<の間である>。それらが起こった後、壊劫が二十劫<つづく>。<す【七二】なわち住劫の>その後、十劫かけて衆生たちは<禅天の>楽を具して、散壊する。その後、一と半劫の間、雨が降らない。その後、別の五太陽が<順に>それぞれ一と半劫の間<六欲天のそれぞれの世界の>頂に出現して、下方<の世界>を焼く。第七の太陽が一劫かけて一切を焼き滅ぼすが、<それが第>二十劫<である>。<衆生世間と器世間を>悉く滅ぼすのが、これら<の劫>である。それゆえ壊劫はちょうど二十劫から成る。その<壊劫の>後、空虚な場が、虚空のみ<の状態>としてちょうど二十劫の間存続する。その<空劫の>後は再び以前の如く、成劫等の一切<が開始される>。

以上のように文献Xの§204〜210 は記されているが、特に§204〜208 の段落はチベット訳文でも韻文で記されており、原文は六偈ほどのシュローカで作られた要約偈であったと思われる。サルヴァラクシタはこの要約偈を美文体詩に変えるようなことはしなかったため、MSKにその対応偈は存在しないが、彼がこの要約偈の内容を熟知していたことは確実で、MSKの中には上記の文献Xの記述に内容的に対応する記述が、作品のあちこちに見られる。MSKの中のそれらの記述を拾って、文献Xの§204〜210 の記述と対応させてみると、次のようになる:

(a) 「独りブラフマー神は<初めの>十劫の間住する」はMSK 2.1.3 の記述と一致。

(b) 「彼の侍者たちの住処は一劫で形成された」はMSK 2.1.7 の記述と一致。

(c)「<その後>ブラフマ・カーイカ天から下はヤーマ天に至るまで、それぞれ<の天の住処>は各一劫づつかかって<順に>出現する」はMSK 2.1.14 の記述と一致。

(d) 「大地、山やその他は<第十八劫の>一劫で形成された」はMSK 2.3.21の記述と一致(18)

(e) 「自ら光を放つ者たち(原=人間)は<第十九と第二十劫の>二劫かかって形成された」はMSK 2.4.1の記述と一致。

【七三】(f) 「<こうして>太陽の誕生の時に至る。かように成劫が<全部で>二十劫<経過する>」はMSK 2.4.5、4.4.17の記述と一致。

(g) 「<住劫が始まって>地味と、地餅と、林<藤>と、稲<の時代がある>。これらの<食物>は幸福の状態<の時代に属する>。<それは>八劫であり、残りの<十二>劫は始終、快と苦<の状態>となる。<稲の>殻の出現などは、<第九劫以降の>十二劫<の間である>」はMSK 3.1.26、4.4.16、4.2.17の記述と一致。また文献Xのいう「幸福の状態」と「幸福と不幸<の状態>」の原語はMSKによれば ekaantasukhaavasthaana(完全な幸福の状態)とsukhadu#hkhaavasthaana(幸福と不幸の状態)であり、それぞれの語はMSKの第3章と第4章の章題として使われている。

(h) 「<住劫の>その後、十劫かけて衆生たちは<禅天の>楽を具して、散壊する」はMSK 5.1.15の記述と一致。

(i) 「その後、一と半劫の間、雨が降らない。その後、別の五太陽が<順に>それぞれ一と半劫の間<六欲天のそれぞれの世界の>頂に出現して、下方<の世界>を焼く。第七の太陽が一劫かけて一切を焼き滅ぼすが、<それが第>二十劫<である>」はMSK5.3.7の記述と一致。

(j)「<衆生世間と器世間を>悉く滅ぼすのが、これら<の劫>である。それゆえ壊劫はちょうど二十劫から成る」はMSK 5.3.12の記述と一致。

(k) 「その<壊劫の>後、空虚な場が、虚空のみ<の状態>としてちょうど二十劫の間存続する」はMSK 6.1.2の記述と一致。

(l) 「その<空劫の>後は再び以前の如く、成劫等の一切<が開始される>」はMSK 6.1.7の記述と一致。

【七四】こうして、成住壊空劫の各二十劫の年表的内訳として文献Xが示す教義に、MSKが完全に従っていることが、以上のMSKのあちこちの箇所の記述において確かめられたわけであるが、それらの内訳としての教理が、正量部独自のものであることは、倶舎論世間品の第九三偈の釈に見られる有部の教理と比較しても確かめられるし、また世記経などの法蔵部の文献にも同様な見解は一切見られないことからも確かめられる。

それではこれら正量部独自の教義が、立世とLPの記述と一致するかどうかを見てみよう。この点の確認こそが、この論文の目的だからである。

文献Xの§204〜210 にある宇宙史の構造に関する教義の中で、有部の教義と一致するのは、成劫・住劫・壊劫・空劫のそれぞれが二十劫から成るという点であり、それ以外では、有部の教義と一致していないことが確認できる。それら、有部の教義と合わない正量部特有の意見は、前記の (a) から(i) までの九項目であるが、それらの点において立世にも同一の意見が見いだせるものは次の通り:

 (1)前記の(a) に一致して「大梵天は成劫の十小劫を独住する」という記述が立世の223c14-16にある。同じ記述はLPのI, 198にもある。

 (2)前記の(f) に一致して「太陽と月の出現をもって、成劫が終了し、住劫が始まると見なす」見解が立世225c8-15にある(19)。同じ記述はLP(I, 205)にもある。有部では、地獄の出現をもって成劫が終了し、住劫が始まると見な。太陽と月で時代を区切るのは正量部特有の教義である。このような教義は清浄道論や、世記経にも見られない。

 (3)前記の (h) に一致して「壊劫において、衆生世間の破壊に十小劫、器世間の破壊に十小劫かかる」と見なす見解が立世(221c6-8, 222c27-29)にある。同じ記述はLP(I, 192, 195, 219)にもある。このように壊【七五】劫を前半と後半とに十劫づつ分けるのは、成劫についても同様に分けるのと対応している。このような教義は清浄道論や、世記経にも見られない。有部の見解とも大きく異なる。有部によれば(20)壊劫の初めの十九劫の間に衆生世間の破壊が順次にあり、最後の一劫において器世間が滅する。有部の理論でも、これは成劫の過程の逆になっている。

立世(と立世のパーリ版)は、文献Xほど詳細には宇宙史の理論的な骨組みを記述していないが、以上、最も基本的な三項目において、立世の記述が文献Xと一致することが確かめられた。立世が文献Xほど詳細に宇宙史の年表的内訳の記述をもたないわけは、立世が正量部がまだ犢子部であった頃から伝承されてきた、正量部特有の体系的コスモロジー教理が完全に固まる前の、半分阿含的な文献であるのに対して、後代にその記述を再整理しいっそう詳細化することを目的として作られた論書として位置づけられるのが、文献Xであるからである。文献Xが西暦五世紀以降の遅い成立と見られるのに対して、立世のインドの原典は、長阿含世記経などとほぼ同時代に形成されたと思われ、遅くとも西暦二世紀には成立していたと思われる(21)。従って、上記の文献Xにみられる成住壊空の年表的内訳の詳細なる教義のほとんどは、西暦三世紀以降に確立されたものであると私は考える。上述の(a) (f) (h)の三点において宇宙史の骨組みが立世と同一であることが確認されたことは、文献Xの詳細なる教義が、立世の基本的教義を出発点として形成されたことを物語るものである。

  

立世・LPがMSK・文献Xと伝承的に一致する証拠探しを続けてゆく。

現存する漢訳の立世のテキストは、劫初における神話的な食物の出現の記述の途中で、突然中断し終了している。【七六】しかしLPが立世と同一のインドの原典に遡ることは確実であるため、現存するLPから立世の末尾の失われたテキストの内容を知ることができる。立世の末尾が切れてしまった部分の後も、LPのテキストは続いているからである。

立世の火災品の失われた部分に対応する、LPの続きの人類の歴史的物語の部分-----アッガンニャ経の続きとして形成されたもの-----を見てみると、MSKや文献Xの伝承とよく一致していることが判明する。それは特に次の点である:

  a) シュードラ階級の後に、チャンダーラ階級の成立を述べる。

      LP I, 214;MSK 3.3.24;文献X §97

  b) 副食物(イネ以外の種々の食物となる植物)の出現を述べる。

      LP I, 214-215;MSK 3.4.1〜3;文献X §98〜100

  c) 家畜となる種々の動物の出現を述べる。

      LP I, 215-216;MSK 3.4.5〜7;文献X §102〜104

  d) さとうきびの出現を述べる。

      LP I, 216;MSK 3.4.4;文献X §101

これら一連の歴史的出来事の詳細な記述は、有部などの他部派の文献には見られないものである。立世の失われた部分はこのように物語が続いていたに違いない(22)

【七七】

  

正量部の部派伝承の特有さは、色界のブラフマ世界の順序にも現れる。世界の成立時にブラフマ世界が形成されるが、MSK(2.1.4〜9)と文献Xによれば、それは(1) 大ブラフマー神(大梵天)の誕生→(2) 大梵天の従者たち(ブラフマ・パーリシャドヤ天)の成立→ (3) ブラフマ・カーイカ天の成立→(4) ブラフマ・プローヒタ天の成立という順序でなされる。一方で、独りの大梵天と沢山のブラフマ・パーリシャドヤ天とが王と従者の関係で同じ世界に住んでいることは、両文献が記述する物語(2.1.4〜7)からわかる。つまり大梵天とブラフマ・パーリシャドヤ天は一つの世界と見なされ、その下方にブラフマ・カーイカ天があり、その下にブラフマ・プローヒタ天が位置するわけである。この三世界の順序は、有部の伝承(大梵天→ブラフマ・プローヒタ天→ブラフマ・カーイカ天)やパーリ上座部の伝承(大梵天→ ブラフマ・プローヒタ天→ブラフマ・パーリシャドヤ天)や世記経の伝承(大梵天→ブラフマ・パーリシャドヤ天→ ブラフマ・プローヒタ天→ブラフマ・カーイカ天)(23)に見られるブラフマ世界の階位とは明確に異なるが、しかし立世の記述とは一致するのである。すなわち、立世には三箇所(24)においてブラフマ世界の階位が示されているが、三箇所とも同様に大梵天→梵衆天(ブラフマ・カーイカ)→梵先行天(ブラフマ・プローヒタ)という順序を示す(25)

なお、このブラフマ世界の階位についての正量部の特異な伝承は、別の典拠によっても思いがけず確認される。まず、犢子部の論書である『四阿含暮抄解』(14a) と『三法度論』(28c) の伝承を見ると、正量部のブラフマ世界の順序と同じである。また、並川孝儀は『有為無為決択』(東北 No. 3897)の中に特に正量部の教義を扱った章があることに注目し、研究した。その正量部の教義を扱った章とは、第十六章から第二一章までである。これらの章の【七八】研究として並川がこれまで発表した論文の中から、正量部のコスモロジーにとって興味深い指摘を拾ってみると:

 (1)有為無為決択によれば正量部は(立世の記述の如く)六道説を採用している。並川(1992a), p. 523.

 (2)有為無為決択で正量部があげる寒地獄の十種は、大樓炭経あるいは立世(!)に伝承された説と同じで、有部の八寒地獄説とは異なる。並川(1992a), p. 524. 

 (3)有為無為決択で正量部は、ブラフマ世界の階位として、上からブラフマ・パーリシャドヤ→ブラフマカーイカ→ブラフマプローヒタという順序を示す(26)。並川(1992b) , p. 31.

並川は(3)で「・・その他の説に比較し、見ることのできない正量部独自の説といえる」と指摘しているが、しかし有為無為決択が示すこの階位は、立世の云何品に出てくる大梵天、梵衆天、梵先行天という階位と同一と見なすべきである。つまり、MSKと文献Xによって、ブラフマ・パーリシャドヤは大梵天の近侍であることがわかるから、有為無為決択のブラフマ・パーリシャドヤ天は、立世のいう大梵天と同一の世界と理解でき、こうして、立世の伝承と有為無為決択の正量部説とが一致することがわかる(27)。三法度論と四阿含暮抄解の場合も同様である。

  10

成劫の物語で、世界を成立させた出来事が順序に詳しく語られるが、次の二点が、有部などの他の伝承にないが正量部の四文献には記されている出来事として、注目される:

 (1) ヤーマ天の前世の「想起」が地上世界の形成において重要な役割を果たすという伝承。典拠:MSK 2.2.1-3;文献X §16-17;立世 224c3-13, 225a5-14(28);LP 200-201。

 (2) 地上世界の創造のしめくくりとして、大雨が降り注ぎ、大地に海をつくるという伝承。正量部の伝承では、【七九】大雨は二度ある。つまり水輪を風輪の上に成立させる時に水輪の上に降る大雨と、大地が成立し地が固まって宝石類が生じた出来事の後に、海を成立させるために降る大雨である。有部などの伝承では、前者の大雨は言及される時があるが、後者の大雨については語られない。典拠:MSK 2.2.14;文献X §24;立世 225b17-22;LP I, 204。

  11

住劫の間、人類の平均寿命は、上限を八万歳、下限を十歳として規則的に増減を繰り返すが、その増減のしかたに部派的な見解あるいは伝承の相違が認められる。立世とLPは、寿命の増進のしかたに大きく四段階(二万歳→四万歳→六万歳→八万歳)を設ける。MSK・文献Xは三段階(二万歳→四万歳→八万歳)で記述しているが、ほぼ同様の説と見てよい。このように正量部文献には寿命が十歳から増進してゆく時は、三段階もしくは四段階の、寿命が飛躍的に伸びる時期を経て、八万歳に至るという説が見られる(29)。寿命の頂点=上限 (%siir#sa)が段階的にあるのが特徴である。寿命の増進について、有部ではこのような三段階や四段階説をとらないのは、倶舎論などの説明の通りであるし、世記経にも同様の説はない。典拠:MSK 4.4.4;文献X §174;立世 216b27-217a19 (≒218c4-219a10; 220b15-221a6);LP, I, 181-182 (≒185-186; 189-190)。

  12

有部の教理によれば(30)、住劫は第一劫から寿命の短縮(減劫)が開始されるのであるが、MSKと文献Xでは、物語の内容から判断するかぎり、第一劫からではない。第一〜八劫の劫末において小三災が起こって人類の殆どが滅び【八〇】るとは----立世のような、正量部がまだ犢子部であった頃から伝承されてきた、正量部特有のコスモロジー教理が完全に固まる前の文献はともかくとして----少なくとも後代の(文献XとMSKのような、コスモロジー理論が再整理され詳細化された後の)正量部文献は認めていないようである。なぜなら文献XとMSKによれば、第一〜八劫は「完全に幸福なる時代」に属しており、小三災が起こるのは第九劫以降の人間の十不善業道の結果であるからである。従って、第一〜八劫までは人間の寿命は八万歳のままであって、寿命の増大期や減少期は存在しないことになる。住劫において、寿命の減少が開始されるのは、第九劫からであり、寿命の増大が起こるのは第十劫からである。立世はこの点で特に何も記していないから、他部派と共通の、素朴な減劫増劫の規則的循環説にとどまっているようである。

  13

アビダルマの議論の論点の一つとして、「地獄の獄卒(看守)たちは生きた衆生 (sattva) であるか、それとも地獄の囚人たちが業の故に見る幻影にすぎないのか」という問題があり、その論点をめぐって諸部派の意見が大きく分かれたことが、カターヴァットゥの第二十品第三章や倶舎論の世間品五九偈への釈、また唯識二十論の第四偈への釈などから知ることができる。特に正量部説に関しては窺基の唯識二十論述記に「諸部中、大衆正量説、獄卒等是実有情」(大正 四三巻, 987a17-18) という記述があり、諸部派の中でも大衆部と正量部とが「地獄の看守たちは生きものである」と主張したことが知られる(31)。この窺基の正量部説についての記事は、現存する正量部の三文献(MSKと立世とLP)の記述から裏付けられる(32)。それらの文献では壊劫の衆生世間の破壊の時に、地獄の獄卒たちが地獄の囚人たちに対して憐れみの心をもち、生きものとして地獄の囚人たちと一緒に昇天することが語られる。典拠:MSK 5.1.5;【八一】立世 222b6-19;LP I, 194。

  14

正量部の地理的世界観が有部伝承のものと多少相違していたことをうかがわせるのが立世(181a-b)やLP(I, 27-29)の記述である。立世の地理説の解説としてはすでに小野玄妙の著作にかなり詳細なものがあるので、改めて解説することを省き、大事な点だけを指摘すると、立世は七つの内海の他に、スメール山を囲む最奥の内海として須彌海を認める。このため内海が全部で八つあることになる。環状山脈は有部同様に七つしか認めないから、内海が有部説よりも一つ多い分だけ、内海の位置が一つづつ有部説よりも外側にずれることになり、最も外にある内海であるニミンダラ海(尼民陀海)が外海と接続することになり、両海がともに四大陸の岸を洗うことになる。この立世の地理観と合致するように思えるのがMSKの記述(2.2.12 )である。MSKの2.2.12の詩節は世界創造の時の、風の運動を示すものであるが、その詩節(33)を訳すと次のようになる:

  最も外側の内海から、外海へと行った<風>は四維において両<海>を合流させた。 <そのように>四大陸を創造することによって<風は>親切によりて四方角にそれぞれ座席をそなえつけたかのようであった。

このMSKの詩節において、内海と外海は、四大陸をはさむ形で、四維で合流してつながっていると見なければうまく解釈できない。創造の風が四維つまり西北・西南・東南・東北の四つの場所において溝を掘り、最も外側の内海と外海とが合流することで、一つの巨大な環状大陸が四つに分断させられ、東西南北の四方角にそれぞれ大陸が形成されたとサルヴァラクシタは表現しているのである。この詩節の地理観は有部説では説明できない。有部説では四大陸の岸を洗っているのは外海の水だけである。最も外にある第七内海と外海とが第七環状山脈のニミンダ【八二】ラ山によって隔てられているからである。MSKの作者が立世の記述のように地理をイメージしていた証拠となろう。

  結語

以上、立世とLPが、MSKと文献Xと同一の伝承に属する証拠をみてきたが、私はこれらの多くの論拠から立世の正量部所属はほぼ確実と考える(34)

これまで、正量部や犢子部の文献はごくわずかしか知られていなかった。立世やLPのような規模の大きな作品が正量部所属らしいと判明したことは、大局的に見ればMSKという新発見の文献よりも、将来の諸学者の研究に大きな影響を与えるものであろう。そのために立世の部派の証明に際しては以上のように、かなり網羅的に見つけた証拠をあげた。恐らく今後もさらにいくつかの証拠を追加できるであろう。すくなくとも有部の伝承とは異なるという消極的な証拠なら、まだまだいくらでも見つかるであろう。

立世の所属部派が判明したことは、従来あまりに部派間の相違に無関心であったために停滞してきた仏教コスモロジーの研究が、部派上の伝承の比較という観点から再開されるきっかけを与えるものである。というのは、立世の伝承の位置が定まらないために、これまでにコスモロジー資料を部派にわけて系統づけて比較するという方法がとれなかったからである。特に体系的な叙述をもつ小乗仏教のコスモロジー論書としては、三種類の大きな作品が現存している。立世と、チベット訳の施設論(特に世間施設)と、長阿含の世記経である。それぞれの作品の所属部派が、正量部、根本有部、法蔵部であることは現時点でほぼ確かであると思われる。これらのコスモロジー文献の相違は部派の伝承の相違である。その相違を比較によって整理してゆくと、それぞれの部派の固有の宇宙観が出てくる。あたかも有部説しか存在しないかのように平板化して語られることが多かった仏教コスモロジーが、今後は【八三】正量部と有部と法蔵部の三本柱で、比較しつつ語られるようになるであろう。コスモロジーにおける部派ごとの差違の研究という、一つの研究分野の研究の基礎が今や確立したわけである。さらにタイ・ビルマ・スリランカなどで中世以降にパーリ語で書かれたコスモロジー文献群が今後の仏教学の課題として注目されるべきである。それらの伝承としての独自性が研究されなければならない。中世のビルマ・タイのコスモロジー文献群の形成は、立世のパーリ版という、本来正量部の伝承であるものがパーリ上座部に移植されることから始まったということは興味深い事実である。

註を見るにはここをクリック