0.概観・サンスクリット仏教説話文学の発展

 インドにおけるサンスクリット仏教説話文学の発展は、13世紀まで、つまりインドで仏教が滅ぶまで続いた。現存作品で見るなら、Avadaana%sataka, Karma%satakaの成立(1世紀頃)から、K#semendraの Avadaanakalpalataaの成立(11世紀)までの創作の歴史が続いている。この、ほぼ1千年におよぶ、説話文学の有機的発展を、M. Hahn(1985)が<註1>見事に特徴づけている (pp.11-17)。彼の説明を図式化するならば、発展は次のようにチャンプー様式の開花と衰微の段階に分けられ、特徴づけられるであろう。

1. Avadaana%sataka以前の「比喩話」の段階‥‥もっぱら素朴な散文で書かれ、紋切型の古い詩節を核としていた。(詩節を核とする伝統が、後に発展するチャンプー形式を下準備したと思われる。)

2. Avadaana%satakaKarma%sataka、賢愚経の最古層(1世紀)‥‥Avadaana%sataka 等において、その文学的なチャンプー形式の最古型が現われる。チャンプーとは、むずかしい韻文と技巧的な散文を組み合わせる美文学の手法である。

3. Kalpa#naama#n#ditikaa D#r#s#taantapa#nkti(2〜3世紀)‥‥チャンプーの発展の段階として、物語が初めて彫琢された散文で造られ、間に多くの詩節がちりばめられるようになる。しかし詩節はいまだ韻文としては単純なものである。 

4. Aarya%suura のJaatakamaalaa(2〜3世紀)‥‥チャンプーは成熟に達し、散文も韻文も細部に至るまで芸術的に完全なものとなる。Hahnは初めての絶頂期とよんでいる。Aarya%suura の文体はしかし、馬鳴に似て過度の装飾がなく簡潔であるため、解釈が難かしい箇所が多くある。

5. Haribha#t#ta のJaatakamaalaa(4〜5世紀初頭)‥‥発展の次の段階を示し、散文は長い名詞複合語が用いられるようになる。Aarya%suuraの時代よりも技法が円熟と確かさを増した分、解釈しやすくなっている。内容はソースに縛られず、(戯曲のように)自由に素材を文学的に書き替えているが、このことはAarya%suuraがソ−スに忠実であろうとしたことと対照的である。

6. Gopadattaの Jaatakamaalaa(6〜7世紀)‥‥作品はなおこの時代にも新たに作り続けられていたが、ジャンル全体としての発展は停まりつつある。GopadattaのJaatakamaalaaは全32話(?)のうちHahnによって15話が回収されたが、そのうち2話だけが確実にGopadattaのもので、余の13話は疑いが残る。しかしそれらの材料から判断するかぎり、独自性はなく、もはやAarya%suuraとHaribha#t#taの亜流であるにすぎない。

7. K#semendra の Bodhisattvaavadaanakalpalataa(11世紀)‥‥仏教はインドで滅びつつあり、作者のK#semendraも仏教徒ではなく、ヒンドウー教徒であった。彼はヒンドウー教徒の読者に仏教説話文学の宝庫を好ましい形で紹介しようとして、執筆したのである。従って、それまでの仏教文学内部の伝統とは外れた位置にある。彼は作品を韻文のみで造ったが、Mahaabhaarata等の叙事詩の文体を用い、anu#s#tubh やupajaatiのごとき単純な韻律を多用した。この点で、彼の作品は中世の(ネパールの)仏教説話文学への分岐点に位置し、その先駆者になったといえよう。

 以上が、Hahnが段階づけた、インドの1千年間にわたるサンスクリット仏教説話文学の----特にチャンプー様式という仏教徒独自の様式に特徴づけられた----発展、および衰退であった。これ以降、サンスクリット仏教説話文学はネパールに舞台を移して、さらに別の発展を遂げたと思われる。それら中世の文学においては、高度の技法を要するJaatakamaalaaはもはや作られず、avadaana文献の韻文による改作が中心となるが、Hahnによれば、それらの改作avadaanaは、作品の規模の大きさ、話の構成、言語の特徴において、互いによく類似しており、ヒンドウー側の後期 Puraa#na文献とも、時代的共通性があるという。それらは大体avadaanamaalaaの名をもつ文献である。

 このHahnの発展の図式によれば、仏教の説話文学の歴史は、チャンプー形式の成熟と衰退の歴史と捉えることができる。仏教徒は、説話の形式として、散文と韻文をこもごも交じらせる手法を好み、しだいにその手法を洗練させていって、Jaatakamaalaa文学において最高度の文学的洗練に達したのである。

1)M.Hahn(1985): Der grosse Legendenkranz(Mahhjjaatakamaalaa), Wiesbaden, S.11-17.

 補足説明:M. Hahnがこれを執筆した時点で、12世紀中頃のSarvarak.sitaのカーヴィアMahaasa.mvartaniikathaaはまだ発見されていない。Sarvarak.sitaのMahaasa.mvartaniikathaaは、K.semendraの作品と同じように、全篇が韻文であり、チャンプー様式がもはや顧みられない段階に属していることが確認できる。仏教詩人はヒンドウー教徒の詩人の圧倒的な優勢の中で、次第にヒンドウー教徒の詩人の作品に様式の模範を求めるようになっていったのである。(ただしSarvarak.sitaには他にMa.nicuu.dajaatakaという作品があるが、そちらはチャンプー様式である可能性が残されている。)Sarvarak.sitaの作品は、技巧的な韻律を多様する美文体文学の伝統に立つことでK.semendraの作品とは一線を画している。11〜12世紀に仏教文学の創作レヴェルが衰微したとはいえないが、もはや12世紀には、仏教の立場に立つ詩人であることは、インド梵文学の中では極めてマイナーな存在であることが運命づけられていた。仏教徒の詩人はヒンドウー詩人の伝統に同化しようとした。精神面で(作品の内容で)ヒンドウー教徒の詩人たちに同化するのを拒否したSarvarak.sitaの作品は傑作であったにもかかわらず、インド文学の歴史に何の影響も残せずに、インドから姿を消した。ただネパールに伝えられた写本によってかろうじて現代まで生き残ったのである。

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